よみもの・連載

和三郎江戸修行 激烈

第一章 迎  撃

高橋三千綱Michitsuna Takahashi

 塀の上に足を乗せて跳び移った。昼間ならなんでもないことだが、夜とあっては簡単には塀の丸瓦に乗っていられない。
 上体が傾き、そのまま土屋家の屋敷内に落ちた。ふやけた土に膝が埋まった。右肩がその衝撃で鋭い痛みを訴えてきた。呻(うめ)いている和三郎の傍を野犬が跳び降りてきた。
「変わった犬だな。ではおまえは今夜からこの屋敷の徒士頭(かちがしら)だ。みなを護るんだぞ。まずは道案内だ」
 和三郎は刀の下緒(さげお)を解(ほど)き、野犬の首に軽く巻きつけた。野犬は灌木(かんぼく)と喬木(きょうぼく)が乱雑に植えられている裏庭を、和三郎を引っ張って踏み込んでいく。
 和三郎は野犬に引きずられるままに、密林のような樹木群の中に足を踏み入れた。
 蜘蛛(くも)の糸が顔に貼り付き、引き剝がすのに懸命になった。野犬は構わずに先を行く。
 蜘蛛の糸から逃れられたと感じると、前が開けた。雲の間から大きな月が顔を出した。固めた土に月の淡い光がはね返る。まるで沼地のようだった。
 野犬は和三郎の躊躇(ためら)いには無頓着に先を進む。足をとめた所は台所の前だった。そこに食物の臭いを嗅ぎつけたらしい。
 和三郎は野犬の首に回していた下緒を解いた。戸口を大雑把に開けると、先に野犬が飛び込んでいった。
 それには構わず、草鞋(わらじ)を履いたまま床に上がってずかずかと奥に進んだ。突き当たりに小行灯(こあんどん)が置かれている。
「沙那殿はおるか」
 声を張って呼んだ。もうコソ泥の真似事(まねごと)をする必要はない。今夜の襲撃はあるまいと踏んだのである。
「沙那殿」
 二度目の呼びかけで廊下の隅にある部屋の戸が開かれた。棒縞(ぼうじま)の小袖を羽織った沙那があわてて出てきた。
 和三郎の姿を認めると、暗い中でも瞳の白い部分が閃(ひらめ)くのが窺えた。
「岡(おか)様、一体、どうなされました」
「悪い連中がここを襲ってくる。狙いは直俊君だ」
「ここを襲う? どうしてそれが分かったのですか」
「それはいずれ話す。とにかく沙那殿は国許(くにもと)に戻ることだ」
「えっ?」
 廊下の様子に気づいた他の女も、恐る恐る廊下に出てきた。
「女中頭のお富(とみ)はいるか?」
「お富様は今夜は実家に戻っておられます」
 そう答えたのは先日会った、お蓮(れん)という女中らしかった。
「では、おぬしたちは明日、夜明けにここを出ろ。ここにいてはおぬしたちの命が危ない」
「命が危ないとはどういうことでございますか」
 お蓮が聞いてきた。和三郎は面倒臭くなった。
「ごちゃごちゃいうな。命が惜しくない者は残って刺客どもと戦うがよい。今夜は襲ってはこんだろうが、明日の晩は危ない。連中の狙いは直俊君だが、おぬしらもここにいると巻き添えを食うぞ」
 そういうと女たちは顔を見合わせて静かに騒ぎ出した。武家勤めらしく叫ぶというのではなく、危険を察知した雀(すずめ)が鳴くような感じである。
「実家が遠い者は近くの宿を取れ。今夜からでも構わん。銭は後ほどここを管理している国分殿に払わせる。なに、騒ぎが収まればここも安全になる」
 和三郎はさっきから、顔を上向けて和三郎を凝視している沙那の肩を摑んだ。細い骨が掌(てのひら)に当たった。心細さが伝わってきた。
「沙那殿は国許に戻るんだ。何もなかった顔をして戻るんだ。兄の仇討(かたきう)ちはすんだのかと問われたら、私には分かりません、岡和三郎は姿を消したと答えるのじゃ。分かったな。それで沙那殿は安心して婿取りができる」
 そういうと沙那の細い指が和三郎の胸元を強く摑んだ。
「わ、わたしは婿など取りませぬ。野山にも戻りません。江戸に、江戸にいさえすれば、わたしのような者でも勤め先はいくらでもあります」
「駄目だ。戻るのじゃ」
「お茶屋で働くこともできます」
 沙那の必死の様子が伝わってきた。

プロフィール

高橋三千綱(たかはし・みちつな) 1948年1月大阪府生まれ。サンフランシスコ州立大学、早稲田大学中退。74年「退屈しのぎ」で第17回群像新人賞、78年「九月の空」で第79回芥川賞を受賞。青春小説や時代小説、またゴルフに関する著作も多数ある。著書に『お江戸の用心棒』『明日のブルドッグ』『空の剣 男谷精一郎の孤独』ほか多数。

既刊紹介

和三郎江戸修行 脱藩

和三郎江戸修行 脱藩 時は幕末。越前野山土屋家中はお家騒動の気配をはらんでいた。小身の家臣の三男坊・岡和三郎は、無駄飯食いの立場だったが、剣の腕には覚えがあった。ある日、藩重役から江戸での剣術修行を命じられる。しかも脱藩して密行せよ、と。大枚の路銀をせしめ、視覚に襲われるも旅立つのだった。修行人宿に泊まりつつ江戸を目指す東海道中、若き剣客を待ち受ける運命やいかに……。傑作時代小説シリーズ幕開き。

和三郎江戸修行 開眼

和三郎江戸修行 開眼 浜松城下で坂本竜馬と別れ、岡和三郎は幕末の東海道を一路、江戸に向かっていた。越前野山藩から命じられた脱藩密行での剣術修行。宇津谷峠の雨宿りで横井小楠と出くわし、酒を呑んではからみ半分のご高説をうかがいながらの道中となってします。若き剣客の心を時にはあたため、時には奮い立たせる出会いは、さらに彼を成長させていくのだった。傑作青春時代シリーズますます熱い第二弾。

和三郎江戸修行 愛憐

和三郎江戸修行 愛憐 四万三千石・土屋家の世嗣である直俊君を密かに護れ。それこそが和三郎に下された真の密命だった。それゆえに江戸でも敵に襲撃され、さらには父の因縁により格上の相手から果たし合いまで挑まれて、半死半生に追いやられてしまう。だが、許嫁の沙那や道中で出会った倉前秀之進、坂本竜馬など味方の存在が和三郎を生かし、剣を磨かせてゆく――。傑作青春時代シリーズ第三弾。

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