よみもの・連載

和三郎江戸修行 激烈

第一章 迎  撃

高橋三千綱Michitsuna Takahashi


 障子を開ける前に、賑やかな声に女の笑い声が混じっているのが分かった。うねかと思ったが、そんなはずはあるまいと思った。
 障子を開けると、酒焼けした坂本竜馬(さかもとりょうま)の顔がまず現れてきた。
「おう、岡殿。飯をご馳走(ちそう)になりに来たぞ。相変わらずぶっそうな人生を歩みゆーようじゃな」
 黒子(ほくろ)まで酒焼けした顔が上機嫌に揺れている。この男の気宇壮大ともいえる人格に接すると、和三郎までなんだか気が大きくなったような気がする。
「すごい返り血じゃのう。まあ、一仕事すませたのじゃけん、一杯やらんか」
 背中を向けていた九十九長太夫も、徳利(とつくり)を手にして背後を振り仰いだ。
「おう、三十両、帰ってきたか。どこに行っておったのじゃ」
 九十九の目も赤い。この目が青くなるのも間もなくだなと和三郎は気の毒にさえ思っていた。
「岡様、みなさんお待ちだったんですよ。今夜は大活躍だったそうですね」
 婉然(えんぜん)とした美女の笑みが部屋を明るくさせている。九十九が余計なことまで喋ったらしい。
「おもんさん、どうしてここに」
「倉前の指図ですよ。どうしても私が料理屋に匿ってもらっているのが気にいらないんですって。夕方、吉井さんが迎えに来てくれましたのさ」
 そこで顔を上げたのは珍しく顔色のよい吉井だった。やはり相当酒を飲んでいる。大砲を扱う浅野家の仲間と一緒にいるはずだったが、彼らの目には吉井はやはり足軽としか映らないらしい。それに吉井も、酒を前にして気持ちが緩んでしまったものらしい。しかし、他藩の家来に向かって強いことはいえなかった。
 部屋の隅でひっくり返っているのは漁師の仙蔵だ。こいつは鼾(いびき)をかいている。やはり昨日から今日にかけての重労働が効いたらしい。
 仙蔵には吉井とは別に、裏の船着場につける小舟を二艘(そう)用意するようにいってあった。裏庭から大川までの逃走路である。先に逃走路を用意することが肝要である、とは孫氏(そんし)の兵法で学んだことである。今夜の仙蔵には相当働いてもらわなくてはならなかった。
 だが、さすがに和三郎は暗澹(あんたん)たる思いになった。吉井と仙蔵には昨日、「明日の夜はきっと田川らの襲撃があるだろう」と伝えてあったのだが、まるで忘れたような酔い心地である。
(この家で、田川源三郎の哀れな姿を見ておれば、とても復讐(ふくしゅう)を企む元気などないと思うかもしれんな。なんせ天井の梁(はり)から逆さまに吊(つ)るされていたんだからな)
 そう好意的に和三郎は解釈することにした。もっとも中屋敷で侍どもが集まっている様子を目にした今となっては、そんな悠長なことを感じている暇はないはずなのである。
 どうしたものかと唸っていると、背後で重い足音がした。
「あら、岡様、お戻りですか。さあ、みなさん活(い)きがいいところを持ってきましたよ」
 大皿に鮪(まぐろ)の切り身を載せてやってきたのはうねである。
「うねさん、実家に戻ったのではなかったのか」
「そのつもりだったんですけど、みなさんに引き止められてしまいましたのさ」
 小太りの愛くるしい体を、くるみのように丸めて嬉(うれ)しそうに白い歯を剝(む)き出した。
「それなら仕方ない。まず、表にいる浅野家の三人の武士に握り飯と肴(さかな)を用意してくれ。それがすんだら、すぐにここを離れて隣の家に避難しろ。ここはじき、敵の襲撃に遭う」
「ええっ! 襲撃!? 敵ってだあれ!」
「誰でもいい。早く用意しろ。それから玉屋(たまや)の花火職人は来ていないか」
「さっきからそこにいますよ」
 うねが指差したのは、竜馬の背後で背中を丸くして蹲(うずくま)っている、元玉屋の花火職人だった卯之助(うのすけ)である。小柄な卯之助は酒も飲まず、ただ和三郎が帰るのを待っていたらしい。

プロフィール

高橋三千綱(たかはし・みちつな) 1948年1月大阪府生まれ。サンフランシスコ州立大学、早稲田大学中退。74年「退屈しのぎ」で第17回群像新人賞、78年「九月の空」で第79回芥川賞を受賞。青春小説や時代小説、またゴルフに関する著作も多数ある。著書に『お江戸の用心棒』『明日のブルドッグ』『空の剣 男谷精一郎の孤独』ほか多数。

既刊紹介

和三郎江戸修行 脱藩

和三郎江戸修行 脱藩 時は幕末。越前野山土屋家中はお家騒動の気配をはらんでいた。小身の家臣の三男坊・岡和三郎は、無駄飯食いの立場だったが、剣の腕には覚えがあった。ある日、藩重役から江戸での剣術修行を命じられる。しかも脱藩して密行せよ、と。大枚の路銀をせしめ、視覚に襲われるも旅立つのだった。修行人宿に泊まりつつ江戸を目指す東海道中、若き剣客を待ち受ける運命やいかに……。傑作時代小説シリーズ幕開き。

和三郎江戸修行 開眼

和三郎江戸修行 開眼 浜松城下で坂本竜馬と別れ、岡和三郎は幕末の東海道を一路、江戸に向かっていた。越前野山藩から命じられた脱藩密行での剣術修行。宇津谷峠の雨宿りで横井小楠と出くわし、酒を呑んではからみ半分のご高説をうかがいながらの道中となってします。若き剣客の心を時にはあたため、時には奮い立たせる出会いは、さらに彼を成長させていくのだった。傑作青春時代シリーズますます熱い第二弾。

和三郎江戸修行 愛憐

和三郎江戸修行 愛憐 四万三千石・土屋家の世嗣である直俊君を密かに護れ。それこそが和三郎に下された真の密命だった。それゆえに江戸でも敵に襲撃され、さらには父の因縁により格上の相手から果たし合いまで挑まれて、半死半生に追いやられてしまう。だが、許嫁の沙那や道中で出会った倉前秀之進、坂本竜馬など味方の存在が和三郎を生かし、剣を磨かせてゆく――。傑作青春時代シリーズ第三弾。

Back number