よみもの・連載

和三郎江戸修行 激烈

第四章 激  突

高橋三千綱Michitsuna Takahashi



 嘉永六年十月二十日は朝から小雨が降った。昼過ぎには雨は止(や)んだが町中にはずっと冷たい風が吹いていた。
 空を覆っている雲は黒ずんだ灰色をしていたが、商家の裏の小庭に咲いた水仙の花が道行く人の目をなごませた。
 夕方になると、すでに軒行灯(のきあんどん)に明かりを灯(とも)す商店も出てきた。料理茶屋からは夜と間違えたかのように、薄暗くなると酒を欲しがる旦那衆がすでに現れて、呼ばれた芸妓(げいぎ)が弾く三味線の音が聞こえてくる。
 その中を直俊君(ぎみ)を馬に乗せた一行が歩んでいく。行く先は堀出雲守の下屋敷である。提灯(ちょうちん)を灯していないので馬丁を含めた一行四人の男の顔は、みな暗がりの中に沈んでいる。
 押上村までくると、あたりは冬を迎える寒々とした田園風景が広がっている。村を過ぎて柳島橋を渡ると、そこが堀出雲守の下屋敷になっている。
 先を行く沼澤庄二郎が脇の門を叩(たた)くと、待っていたかのようにすぐに門が内側から開かれた。
 そこにいたのは岡和三郎である。
「お、岡か。どうしたのかと案じておったのだ。これでよいのか」
 中に足を踏み入れた沼澤は、他藩の屋敷に入ることに遠慮気味だったようだ。ぎょろりと剝(む)き出した目玉が微(かす)かに震えている。
「はい。半刻(はんとき)(約一時間)ほど休ませてほしいと、堀家の家臣には伝えてあります」
「賂(まいな)いを取られたのではないか」
「それなりに。ですが、心配するほどのことはありません」
 門番が閂(かんぬき)をはずして大門を開くと、馬丁が馬を引いてまず最初に入ってきた。直俊君は何もいわずに手綱をつかんでいる。馬上の姿勢がやわらかく馬の背に連動している。乗り慣れた人の馬術である。
 続いてふたりの侍が入った。土屋家の家来、小野田豊平と平田伊右衛門である。
「おぬしにいわれた通り、女中どもにも国分殿にもこのことは伝えていない。秘密が漏れたとはどういうことだ」
「直俊君が堀家に移るという話が漏れたということです」
「し、しかし、その話をしたのはわずか三日前の晩ではないか。あの折、あそこにいた者が漏らしたというのか」
「その詮議はあとです。直俊君を襲うとしたら町中ではまずい。連中にとっては土屋家の下屋敷が最後の機会です。堀家の下屋敷に入る前になんとかしようとするはずです」
 和三郎はそういった。今日のことは一昨日から決めていたことだ。
 だが、堀家の下屋敷に直俊君を匿(かくま)ってもらうことはできない。彼らにとっては直俊君は、単なる他藩の世嗣の影武者に過ぎないのである。
 直俊君と沼澤らが控えの間で茶を飲む間、和三郎は馬の体を点検した。外は先ほどと比べて一段と暗くなっている。星も月も見えないが、本来ならまだ六ツをようやく過ぎた時刻だろう。
 和三郎は直俊君だけを馬上に乗せ、下屋敷の裏の門から屋敷の外に出た。馬丁も残し、和三郎は直俊君を抱きかかえて馬を操り、龍眼寺(りゅうげんじ)と津軽越中守(つがるえっちゅうのかみ)の間の小道を通って川沿いに南へ向けて走らせた。
 土屋家の一行は時を見計らって、直俊君が不在の下屋敷に戻るはずである。

プロフィール

高橋三千綱(たかはし・みちつな) 1948年1月大阪府生まれ。サンフランシスコ州立大学、早稲田大学中退。74年「退屈しのぎ」で第17回群像新人賞、78年「九月の空」で第79回芥川賞を受賞。青春小説や時代小説、またゴルフに関する著作も多数ある。著書に『お江戸の用心棒』『明日のブルドッグ』『空の剣 男谷精一郎の孤独』ほか多数。

既刊紹介

和三郎江戸修行 脱藩

和三郎江戸修行 脱藩 時は幕末。越前野山土屋家中はお家騒動の気配をはらんでいた。小身の家臣の三男坊・岡和三郎は、無駄飯食いの立場だったが、剣の腕には覚えがあった。ある日、藩重役から江戸での剣術修行を命じられる。しかも脱藩して密行せよ、と。大枚の路銀をせしめ、視覚に襲われるも旅立つのだった。修行人宿に泊まりつつ江戸を目指す東海道中、若き剣客を待ち受ける運命やいかに……。傑作時代小説シリーズ幕開き。

和三郎江戸修行 開眼

和三郎江戸修行 開眼 浜松城下で坂本竜馬と別れ、岡和三郎は幕末の東海道を一路、江戸に向かっていた。越前野山藩から命じられた脱藩密行での剣術修行。宇津谷峠の雨宿りで横井小楠と出くわし、酒を呑んではからみ半分のご高説をうかがいながらの道中となってします。若き剣客の心を時にはあたため、時には奮い立たせる出会いは、さらに彼を成長させていくのだった。傑作青春時代シリーズますます熱い第二弾。

和三郎江戸修行 愛憐

和三郎江戸修行 愛憐 四万三千石・土屋家の世嗣である直俊君を密かに護れ。それこそが和三郎に下された真の密命だった。それゆえに江戸でも敵に襲撃され、さらには父の因縁により格上の相手から果たし合いまで挑まれて、半死半生に追いやられてしまう。だが、許嫁の沙那や道中で出会った倉前秀之進、坂本竜馬など味方の存在が和三郎を生かし、剣を磨かせてゆく――。傑作青春時代シリーズ第三弾。

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