よみもの・連載

和三郎江戸修行 激烈

第四章 激  突

高橋三千綱Michitsuna Takahashi

「おい、和三郎、沙那殿が昨夜屋敷に泊まったために、土佐藩ではえらいほたえになっとるぞ。嫁にというやつもおれば、婿に迎えてくれとわめくやつもおる。儂はどいてよいのか分からんき、とにかく逃げてきた。ん、おまん泣きゆのか」
「そうや、泣いとる」
「そうか、泣きゆのか。あの妖怪と出会うて、おまんの生き方も変わってくるじゃろからな」
 沙那は、別に頰を紅(あか)く染めるでもなく静かに微笑んで、すでに点のように小さくなった猪牙舟を見つめている。
「それからな、直俊君は実家には戻りたくないとゆうておったぞ、ここにおりたいそうじゃ。どうする?」
 直俊君は和三郎を見上げて、
「舩松町でもいいぞ」
 といった。
「直俊という名前も元に戻さんといかんな。おぬしはなんという名じゃ」
 和三郎は目線を直俊君と同じにして尋ねた。
「家では与次郎(よじろう)と呼ばれておった。でもそんなことはもう忘れた」
「ついでに若君言葉も忘れろ。名前など好きなようにつければよいのじゃ」
 父中村和清のように、と和三郎は思った。
「では、今後のことを相談がてら、おぬしの居酒屋で朝飯を食いながら一杯やるとするか」
 竜馬がご機嫌な様子で青い空を仰いでいった。気分転換の早い男だった。初冬の空は青く澄み渡っている。空気が新鮮だ。
 居酒屋の暖簾(のれん)をくぐろうとすると、足元で「ワン」と吠(ほ)える犬がいた。
 形良く伸びた鼻ズラが和三郎を睨み上げている。
「おい、このワン公は仲間のつもりじゃぞ」
 竜馬が頭を搔いて笑った。
「でも、ここの主人はもう和三郎さんなんですから、犬を座敷に上げるのは勝手でしょ」
 といったのはうねである。なんだか得意顔になっている。
 いやだめだ、といったのは和三郎である。
「犬は犬。お犬様でも人間と一緒にはできん。他の客がみな犬を連れてきたらこの店はどうなるんじゃ」
 和三郎はそのときばかりは、昨夜の激闘も忘れて偉そうに胸をそっくり返した。沙那が指を唇にあてて笑いをこらえている。隠れ唐衣がある限り、わたくしは和三郎様を隠れて見張っています、と笑われているような気がして、和三郎は少しばかり憂鬱になった。
(じゃが、あの数々の死闘をへて生き抜いてこられたのは、おれに剣の技と女子には気づかん気力があったからだ)
 江戸の眩(まばゆ)い初冬の空を目一杯瞳を広げてみつめた和三郎は、そこで、ふうーっと大きな息をついた。
 ここから始まる人生が楽しみだと思っていたのである。

プロフィール

高橋三千綱(たかはし・みちつな) 1948年1月大阪府生まれ。サンフランシスコ州立大学、早稲田大学中退。74年「退屈しのぎ」で第17回群像新人賞、78年「九月の空」で第79回芥川賞を受賞。青春小説や時代小説、またゴルフに関する著作も多数ある。著書に『お江戸の用心棒』『明日のブルドッグ』『空の剣 男谷精一郎の孤独』ほか多数。

既刊紹介

和三郎江戸修行 脱藩

和三郎江戸修行 脱藩 時は幕末。越前野山土屋家中はお家騒動の気配をはらんでいた。小身の家臣の三男坊・岡和三郎は、無駄飯食いの立場だったが、剣の腕には覚えがあった。ある日、藩重役から江戸での剣術修行を命じられる。しかも脱藩して密行せよ、と。大枚の路銀をせしめ、視覚に襲われるも旅立つのだった。修行人宿に泊まりつつ江戸を目指す東海道中、若き剣客を待ち受ける運命やいかに……。傑作時代小説シリーズ幕開き。

和三郎江戸修行 開眼

和三郎江戸修行 開眼 浜松城下で坂本竜馬と別れ、岡和三郎は幕末の東海道を一路、江戸に向かっていた。越前野山藩から命じられた脱藩密行での剣術修行。宇津谷峠の雨宿りで横井小楠と出くわし、酒を呑んではからみ半分のご高説をうかがいながらの道中となってします。若き剣客の心を時にはあたため、時には奮い立たせる出会いは、さらに彼を成長させていくのだった。傑作青春時代シリーズますます熱い第二弾。

和三郎江戸修行 愛憐

和三郎江戸修行 愛憐 四万三千石・土屋家の世嗣である直俊君を密かに護れ。それこそが和三郎に下された真の密命だった。それゆえに江戸でも敵に襲撃され、さらには父の因縁により格上の相手から果たし合いまで挑まれて、半死半生に追いやられてしまう。だが、許嫁の沙那や道中で出会った倉前秀之進、坂本竜馬など味方の存在が和三郎を生かし、剣を磨かせてゆく――。傑作青春時代シリーズ第三弾。

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