連載
「沖縄コンフィデンシャル」
『楽園の涙 ―沖縄コンフィデンシャル―』(第三部) 高嶋哲夫 Tetsuo Takashima

 なんとか立ち上がった。
 踏み出そうとしたが、全身に力が入らない。雲の上を歩いているようで、足がもつれる。転びそうになったが、車のボンネットに手をついて身体を支えた。
 頭から流れているのは――血だ。口に入ると鉄分の味が広がる。視野が赤いのも目に流れ込んだ血のせいか。瞬きをすると赤みが増した。
 頭を押さえていた手を見ると、赤く染まっている。指先に触れると、ぬるりとした感触。
 慌てて手を服で拭うと、ベージュのブラウスの胸に赤い花が咲いたようだ。
 死ぬかもしれない。そう思ったが、不思議と恐怖はなかった。でも今は死ねない。
 なぜ私がこんな目に遭う。朦朧とした意識の中で考えた。
 車を降りたときに襲われた。背後から髪をつかまれ、引き倒された。相手を見ることなく、顔を殴られ、サングラスが吹き飛んだ。
 男がハンドバッグを奪おうとする。必死でつかんでもみ合っていた。
 助けて、と叫んだような気がする。誰か来て。朝の十時、もうかなりの人がいるはずなのに。
 再び顔を殴られた。その拍子に倒れ、車止めのコンクリートに頭をぶつけた。にぶい音がしたのを覚えている。頭を強打したときの重く嫌な感覚が全身に広がる。頭の中が白くかすみ、全身から力が抜けていく。
 消えそうになる意識の中で、ハンドバッグを必死に抱え込んだ。
 男の動きが止まった。男の身体越しに人影が見えた。男女二人だ。
 悲鳴を聞いた。女性が上げたのだ。
 男が私を突き放すと、走り去っていく。そのとき一瞬、振り返った。あの男は――。
 今は死ぬわけにはいかない。再び自分自身に言い聞かせ、立ち上がった。無意識のうちに一歩を踏み出した。足元がふらつく。
 赤く染まった視野に、年配の男女が近づいてくるのが見えた。助けて――声を上げたが、声になったかどうか分からない。
 近づいてきた二人が私を支えようとしたが、その場に崩れ落ちた。わずかに残っていた意識が消えていく。



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〈プロフィール〉
高嶋哲夫(たかしま・てつお)
1949年岡山県玉野市生まれ。慶應義塾大学工学部卒業、大学院修士課程修了。
日本原子力研究所研究員を経て、カリフォルニア大学に留学。
79年、原子力学会技術賞を受賞。
94年『メルトダウン』で第1回小説現代推理新人賞を受賞。
99年『イントゥルーダー』で第16回サントリーミステリー大賞・読者賞をダブル受賞。
著書に『M8 エムエイト』『TSUNAMI 津波』『原発クライシス』『首都崩壊』など多数。
※本サイトで連載していた『琉球コンフィデンシャル』は『沖縄コンフィデンシャル 交錯捜査』に改題し、集英社文庫より好評発売中です。本連載は、その続編となります。
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第一章 真実の行方