連載
浮世奉行と三悪人
第四話 抜け雀の巻 田中啓文 Hirofumi Tanaka

    一


 波は高く、荒かった。白い靄(もや)が立ち込めるなかを船は進んでいた。
「紺八(こんぱち)どん、これからどないなるのやろ」
 船べりに取りすがった楫取(かじとり)の七助(しちすけ)が情けない声をあげた。全身ずぶ濡れで、髭(ひげ)や髷(まげ)からも塩水が垂れている。
「わからん……」
 この船の一切を仕切っている船頭の紺八は、ため息まじりにそう言った。
「わしにはまだ、なにがなんやらさっぱりじゃ。船頭務めて三十年になるが、こんなことははじめてやさかいどないしたらええかわからん」
「そやなあ、悪い夢を見とるような心地やわ」
 舳(へさき)に当たって砕けた波が、轟音(ごうおん)とともに雨のように甲板に降り注ぐ。七助は吐き捨てるように、
「あんな連中の言いなりにならなあかんやなんて悔しいが……多勢に無勢でどうにもならん。差しで勝負できたら、どたまかち割ったる!」
「しっ。あいつらに聞こえるぞ。福松(ふくまつ)がどうなったか忘れたか」
 紺八がにらむと、七助は口を押さえた。
「とにかくあいつらの狙いがわからんうちは、下手に逆らわんほうがええ」
「へえ。――はじめは海賊かと思いましたが、こっちの積み荷が欲しいわけでもなさそうやし、船を乗っ取るつもりでもないみたいだすな」
「とにかく、このことを旦那にお報(しら)せでけんのが口惜しいわい」
 そのとき、千石船(せんごくぶね)は大きく揺れた。あやうく海に投げ出されそうになった七助がようよう立ち上がると、
「おい、七助、見てみい」
 舳に立った紺八は馬手(めて)をかざした。
「あいつらの船が離れていくぞ」
「ほ、ほんまや。鉤縄(かぎなわ)も外れとる。見張りもおらん。紺八どん、こらどういうこっちゃ」
「わしが知るかい! けど、これで船が動かせる。皆に伝えてくれ」
「なんや気味悪うおまんな」
「気にするな。船操るのがわしらの役目や」
「どないしまんねん。江戸へ向かいますのか」
「いや……いっぺん大坂へ戻ろ。今度のことはどう考えてもおかしい。福松は大怪我させられたし、旦那からお上に申し上げてもらわなあかんやろ」
「承知しました。船を戻します」
 水夫たちに指図をしようとした七助に、
「ちょっと待て。あれはなんや」
「へ……?」
 紺八が靄のなかの一点を指差した。はじめは染みのようだったものがみるみる大きくなり、靄のなかに一隻の黒い船が巨大な亡霊のように浮かび上がった。
「ひえっ」
 七助はぺたんと尻餅をつき、
「う、う、海坊主や。食われてしまうで」
「ちがう。しっかりせえ。あれは船や」
「えっ? どこの船や」
「あれは……公儀船や」
 紺八の言を裏付けるように、その船の帆には葵(あおい)の紋がはっきりと見て取れた。



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〈プロフィール〉
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の戦士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年短編「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『水霊(ミズチ)』『辛い飴』『チュウは忠臣蔵のチュウ』等、著書多数。
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第四話 抜け雀の巻2
第四話 抜け雀の巻