連載
浮世奉行と三悪人
第四話 抜け雀の巻 田中啓文 Hirofumi Tanaka


 大坂は高麗橋筋(こうらいばしすじ)と今橋筋(いまばしすじ)のあいだにある「浮世小路(うきよしょうじ)」には、浮世が凝縮したような商売が並んでいる。そのなかでも一番朝早くから開いているのは風呂屋である。仕事まえの朝風呂を楽しみにしている連中が六つ半(午前七時頃)にはもう押しかけてくるから、暗いうちから湯を焚(た)きつけねばならぬ。
「おはようさん」
「おはようさん。今日はいつもより早いんちがうか」
「今から母屋の用事で池田まで走らなならん。そのまえにひとっ風呂と思てな」
「ご苦労なこっちゃ」
「風呂銭ここに置くで」
「おおきに」
 続いて質屋、煙草屋、飛脚問屋、小間物屋などが暖簾(のれん)をかけ、丁稚(でっち)が水を撒(ま)きはじめる。やがて餅屋、うどん屋、一膳飯屋などからよい匂いが流れだす。
 そういった昼の商売が一段落するころ、それまで眠っていたかのように静かだった一角がにわかに活気づく。浄瑠璃(じょうるり)や三味線、踊りなどの稽古屋、安酒をたらふく飲める居酒屋、的に当たると景品がもらえる楊弓(ようきゅう)屋といった商売が店を開け、同時に出会い宿や妾宅(しょうたく)にもひとが出入りしはじめる。
 雀丸(すずめまる)は、「竹光(たけみつ)屋」という文字が染め抜かれた暖簾から顔を出し、夕陽が西横堀の水面を赤く照らしているのをぼんやりと眺めた。口を半分開き、水の流れを見つめているそのぽかんとした顔つきは、まるでなんにも考えていないかのようだが……そう、なにも考えていないのだ。一日に幾度となく、雀丸は頭をからっぽにし、川や往来や花や木や鳥や虫をぼけーっと見る。そうすることで心のなかが清浄になるような気がするらしい。
 ちゅんちゅん、ちゅちゅん……と十羽ほどの雀が屋根から地面に降り、なにかをついばんでいる。このあたりは堂島(どうじま)の蔵屋敷に近いため、雀が多いのだ。
「そろそろ仕舞おか」
 ふとわれに返り、暖簾を外す。歳はまだ二十四歳。印半纏(しるしばんてん)に腹掛け、股引(ももひき)という身なりで、かつては藤堂丸之助(とうどうまるのすけ)という大坂城弓矢奉行付き与力(よりき)だったとは思えぬほど町人姿が板についている。どこからも「侍の臭い」がしないのだ。近所のものも、彼のことを「雀(じゃく)さん」とあだ名で呼ぶぐらいだ。
 色白で、目も眉も細く、鼻筋もすっきりとして、唇も小さい。まるで豆腐のようにあっさりした顔立ちだ。腕も細く、身体つきもひょろりとしており、父親から直心影流(じきしんかげりゅう)剣術をはじめ弓術、棒術、槍術(そうじゅつ)などを叩き込まれたとはとうてい見えぬ。もっとも試合に勝ったことはほとんどない。二、三合(ごう)も撃ち合うと、
「参りました」
 と木剣を下げてしまうのだ。「勝つのが嫌」だかららしい。相手の腕を見きわめたから、とか、自分のほうが強いとわかったから勝敗はつけなくてもいい、とかいった理由ではなく、純粋に「勝負をする意味がわからない」のだと言う。「相手が憎いわけでもないのに、どうして争わなければならないのか」わからないのだ。



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〈プロフィール〉
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の戦士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年短編「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『水霊(ミズチ)』『辛い飴』『チュウは忠臣蔵のチュウ』等、著書多数。
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