連載
浮世奉行と三悪人
第四話 抜け雀の巻 田中啓文 Hirofumi Tanaka

 入り口の引き戸が開いて、入ってきたのは職人風の男とその妻らしき女、そして、八歳ぐらいの男の子だった。男の顔を見て、雀丸は言った。
「あれ? 貞飯(さだめし)さんやないですか」
「あははは……雀さん、久しぶりやな」
 長谷川(はせがわ)貞飯は、上方絵(かみがたえ)再興の祖として名高い浮世絵師長谷川貞信(さだのぶ)の弟子のひとりであるが、無精髭を生やし、ぼろぼろの十徳を着たその姿は、とても絵師とは見えぬ。貞飯の師である貞信は役者絵を得意としているが、美人画、芝居絵、風景画、名所絵……となんでも巧みに描く。しかし、貞飯は風景画しか描けぬ。人物を描くと化け物のようになってしまうのだ。しかも、唯一の特技である風景画も、見たとおりにしか描けない。北斎(ほくさい)や広重(ひろしげ)のように洒落(しゃれ)た表現や気の利いた題材の切り取り方はせず、まるで絵図面のようだ……というので、あまり仕事はないらしい。ただし、手先は器用で、屏風の張り替えや絵の表装、箱作りなどをやらせたら表具師や細工師そこのけの腕だそうで、からくりを考案するのも上手く、要久寺(ようきゅうじ)の住職と気が合いそうな人物だが……肝心の絵がダメなのである。
「なにか私にご用事ですか」
「いや、その……用というほどのこともないのやが……」
「なに言うてんの。用があるさかい来たんだす!」
「わしが今、雀さんにもの言うとんのじゃ。おまえは黙ってえ」
「なんやて、あんたこそ黙ってなはれ、この土瓶!」
 住まいは浮世小路の二筋南、四軒町(しけんまち)の長屋だ。家が近いので、雀丸はこの夫婦や一人息子の辰吉とも面識があり、毎日のように朝から晩まで夫婦喧嘩をしているということも心得てはいたが、路上でこうまで派手に繰り広げるとは思っていなかった。
「すいませんが、なかに入って、そこをぴしゃっと閉めてください。声が世間に丸聞こえになりますから」
「うわあ、面目ない」
 貞飯は頭を搔いたが、女房のまさが、
「このひとが悪いんだっせ。理屈で負けるさかいすぐにでかい声出して、それでも足らなんだら髪の毛引っ張りますねん」
「な、なんやと、こら! おまえもわしの顔搔きむしるやないかい!」
「あんたが先に手ぇ出したんや」
「おまえがわしの言うこときかんと、横町奉行に訴えるとか抜かすさかいや」
「なにが悪いのん? 横町奉行やったらわての言い分、ちゃあんと聞いてくれはるわ」
「おまえの言い分なんぞ聞いてもしゃあない。――雀さん、こんなアホの言うこと、まともに取り合(お)うたらあかんで」
「だれがアホやねん、このひょっとこ!」
「じゃかましい、このおかめ!」
「狛犬(こまいぬ)!」
「どたふく!」
「ごきぶり!」
「ばった!」
 もうめちゃくちゃである。雀丸はふたりのあいだに割って入ると、厳しい顔つきで、
「おやめなさい。お子さんのまえでみっともないですよ」
「す、すまん、雀さん。このガキが……」
「ちがう、このひとが……」
 すぐにまたはじまりそうになったので、
「わかりました。横町奉行としての私に訴えごとがあるのですね。まあ、そこにお座りください」
 そう言って座布団をすすめた。ふたりは雀丸のまえに座り、男の子はかれらの後ろにちょこんと座った。利発そうな子だが、着物は粗末なものだった。



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〈プロフィール〉
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の戦士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年短編「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『水霊(ミズチ)』『辛い飴』『チュウは忠臣蔵のチュウ』等、著書多数。
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第四話 抜け雀の巻2
第四話 抜け雀の巻