連載
浮世奉行と三悪人
第四話 抜け雀の巻 田中啓文 Hirofumi Tanaka

「はい……お聞きしましょう」
「いや、雀さん、わしはあんたの手を煩わすようなことやない、と思たんやが、おまさが聞き分けがないもんでしゃあなしに来たんや。うちの恥を世間に晒(さら)すこっちゃさかい、わしは気が進まんのやけどな……」
「なに言うてんねん。ええかっこして、うちの恥やなんて……あんたの恥やないの!」
「わしがいつ恥さらしなことしたんや。わしは潔白や。指先ほども悪いことした覚えはない」
「嘘ばっかり言うて、この千三(せんみつ)亭主!」
「まあまあ……おふたりとも落ち着いて……」
 そう言わなしょうがない。
「私は横町奉行としてお聞きするのですから、今からこの場では喧嘩口論などは一切行わないようにしてください。でないと、訴えを承ることはできません。いいですね」
 ふたりはうなずいた。
 横町奉行は、「奉行」と名前がついているが町奉行や寺社奉行、鉄砲奉行、弓奉行などのような公の務めではない。大坂の町奉行所に所属する与力・同心は東西合わせても百六十人しかおらず、その人数で大坂全域と摂津(せっつ)、河内(かわち)、和泉(いずみ)、播磨(はりま)の四カ国における司法・行政・警察を一手に引き受けていたのだから、当然、なんやかやと業務に滞りが生じる。なかでも「公事ごと」つまり町人からの訴えごとについては、「公事三年」という言葉があるとおり、町奉行所に訴え出たとしても何年も待たされる。イラチな大坂人には耐え難いことである。
 公事の裁きは毎日行われるわけではなく、「御用日」はひと月に何回と決まっているので、田舎からそのために出てきた百姓たちは自分たちの番が回ってくるまで「用達(ようたし)」という御用宿にずっと連泊していなければならない。しかも、その順番はいつ回ってくるかわからないのだ。宿泊費もかかるし、仲介役の「公事師」という連中のいいカモにされることもある。
 そんな百姓・町人の事情など、町奉行所の諸役人にとってはどうでもよいことだ。知らぬ顔を決め込み、先例どおり、ゆっくりゆっくり処理していけばよい。それで先祖代々の禄(ろく)をもらえるのだ。
 商いのうえの揉めごとは即断・即決が要求される。町奉行の裁きを呑気(のんき)に待っていられない。大坂の町のものがそういうときに公事ごとを持ち込んだのが「横町奉行」である。横町奉行は、大坂の商人たちによって作られた役目であり、お上とはなんの関係もない。ある書物には「商売の道に明るいのはもちろん、諸学問にも造詣が深く、人情の機微によく通じ、利害に動じることのない徳望のある老人が、乞われてこの地位に就いた」とあるように、横町奉行は訴えの当事者双方の話を聞いたうえでただちに裁きをくだす。その裁断が不服でも文句を言うことは許されなかった。それを承知で横町奉行のところに持ち込むのだ。そして、代々の横町奉行の裁きには、勝者も敗者も納得させるだけの力があったという。



     6    10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21  次へ
 
〈プロフィール〉
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の戦士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年短編「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『水霊(ミズチ)』『辛い飴』『チュウは忠臣蔵のチュウ』等、著書多数。
Back number
第四話 抜け雀の巻2
第四話 抜け雀の巻