連載
浮世奉行と三悪人
第四話 抜け雀の巻 田中啓文 Hirofumi Tanaka

「ほたら、その旦那、なんちゅう名前やのん」
「えーと……それは……」
「ほら、言われへん。やっぱりおらへんねん」
「ちがう。旦那の名前は……言うたらあかんことになっとんねん」
「嘘やー。はい、嘘バレましたー」
「よっしゃわかった。約束を破るのは心苦しいけど、おまえがそこまでわしを信用せんのやったら旦那の名前を言うわ」
「ふんふん」
「けどなあ……やっぱりなあ……」
「どっちやのん!」
「どないしよかなあ……」
「はよ言いなはれ、じれったいなあ!」
「やっぱり言えん。こればっかりはあかんわ。固く約束させられとるよって……」
 まさはさめざめと泣き出し、
「ああああ、わが亭主ながら情けない。浮気なら浮気て男らしゅう認めたらええのに、おりもせん旦那のありもせん仕事……そんな言い訳が通ると思てるとは。あんたの着物からなにからみーんなわてが内職したお金で買(こ)うたもんや。それに毎日、始末のうえにも始末して暮らしてるのに、どこの馬の骨かわからん女に貢ぐやなんて……ああ、悔しい!」
「ちがうて言うてるやろ。おまえの思い違いや。これやから女というのは……」
「ほら! ほら! ほら見なはれ! 都合悪なったらじきに『女というのは……』て言い出しまっしゃろ! はっ! これやから男というのは……」
 まさの声があまりに大きいので、雀丸はだんだん耳が痛くなってきた。
「わかりました。つまり、あなたがたは浮気をしたしていない……という夫婦の揉めごとでうちに来られたんですね」
「そうですねん。わての言うことがおうてまっしゃろ」
「なに言うとんねん。わしのほうが正しいわい。なあ、雀さん」
「あんたが正しいわけないやろ。なあ、雀さん」
「わしや!」
「わてや!」
 雀丸はいきなり両手を左右に伸ばしてふたりの口をふさぐと、
「横町奉行はお上がなかなか裁いてくれない公事ごとを裁くのが本来の務めです。夫婦喧嘩を持ち込まれても往生します。帰っていただけますか」
 まさが、
「それは殺生やわ、雀さん。横町奉行ゆうのは大坂のもんの困りごとをたちどころに片づけるのやなかったんか。うちのひとが浮気をしてるのはわてがこの目で見たのやから間違いない。あの泥棒猫みたいな女がうちのど甲斐性なしと二度と会わんように、あの女をお仕置きしとくなはれ!」
「おまさ、あの女はそういうひとやないて言うたやろ」
「まだ言うか!」
 まさは貞飯に摑みかかった。貞飯も、雀丸の手前、恰好をつけようと思ったのか、まさの頬をぶった。ぶった、といってもほんの軽く、撫でた、という程度だったが、まさは逆上して貞飯の顔面を搔きむしった。



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〈プロフィール〉
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の戦士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年短編「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『水霊(ミズチ)』『辛い飴』『チュウは忠臣蔵のチュウ』等、著書多数。
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