連載
浮世奉行と三悪人
第五話 俳諧でひと儲けの巻 田中啓文 Hirofumi Tanaka

 芭蕉の作り上げた俳諧は「蕉風」と称され、死後、「おくのほそ道」が出版されるとその評価は絶大なものとなった。弟子たちはそれぞれのやり方で蕉風俳諧を全国津々浦々に広め伝え、門弟の数を競った。その結果、芭蕉は神格化され、「俳聖」と呼ばれるようになった。五十回忌に当たる寛保(かんぽう)三年(一七四三年)には、各地の蕉門俳人たちはこぞって盛大な法要や句会を営み、「芭蕉塚」なるものを建立して、芭蕉の追善と顕彰を行った。芭蕉塚というのは、芭蕉の短冊などを埋めてそこに句碑を建て、横の祠(ほこら)に像を安置するもので、全国に多数作られた。年々その数が増え、昨今では四百を超えたともいう。
 しかし、一方では増えすぎた蕉風の門人たちのなかには芭蕉が晩年に到達した「かるみ」の精神を理解せず、日常的な素材をわかりやすく即吟すればよい、というような考え方のものも多かった。
 また、点取り俳諧や月並み句合わせといって、お題が書かれた引き札を点者があちこちに配って宣伝する。それを見た一般庶民が入花料を払って投句し、上位入賞者には景物(けいぶつ)や金銭が支払われるという遊興・賭博としての俳諧が盛んに行われるようになった。八文から十五文ほどの入花料が、下手をすると数百倍、いや数千倍になって返ってくることもあるのだからこたえられない。宗匠も、入花料によって莫大(ばくだい)な収入を得られる。これが、俳諧の流行に拍車をかけた。
 そのうちに、競技のような俳諧に辟易(へきえき)した心ある俳人のなかから、芭蕉に帰れという動きが起こるようになった。京で絵と俳諧を融合させた「俳画」を確立した与謝蕪村もそのひとりである。小林一茶も芭蕉へのあこがれが強く、「おくのほそ道」の跡を慕った旅行記を残している。
 芭蕉を神格化する動きはますます加速化されていき、従来の句集に入っていない芭蕉の発句が見つかれば、それがどんなに取るに足らない句であっても俳人たちはありがたがった。七十回忌や九十回忌も全国で盛大に法要が営まれたが、寛政(かんせい)五年(一七九三年)の百回忌はことに大がかりであった。また、蕉風の祖たる芭蕉に対して、禁裏(きんり)や公家(くげ)衆から「正風(せいふう)宗師」「桃青霊神」「花の下大明神」といった神号が贈られた。まさに芭蕉は俳諧の神となったのだ。
 しかし、点取り俳諧や月並み句合わせの流行も衰えを見せず、俳諧は金のかからない(ときには儲かることもある)簡便な娯楽として庶民のあいだに浸透し、定着していた。
 そこで、芭蕉の「辞世の句」の登場である。退屈しのぎにはもってこいの「ブワーッとした」話題ということで、大坂のひとびとは大いに盛り上がった。

「『旅に病んで夢は枯野をかけ廻る』というのが、芭蕉の辞世のように思われておるが、これは『病中吟』と前書きがある。つまり、芭蕉はまだ病が治ると思うておったのじゃ」
 加似江はそう言った。
 健康だった芭蕉が大坂で病に倒れたのは九月二十九日である。十月五日には、花屋仁左衛門方に移り、門人で医者でもある木節(ぼくせつ)の治療を受けた。芭蕉が「旅に病んで……」の句を詠んだのは神無月の八日で、亡くなったのは十二日である。その間も、弟子の句の批評をしたり、みずから筆を取って兄への遺言をしたためたりしている。また、去来(きょらい)という弟子に「おくのほそ道」の草稿は今、伊賀上野にいる兄の手元にあるが、それをおまえに譲る、もし私の病が治るようなことがあったら、写しを取って、原本を返してくれ、と言っていることを見ても、「旅に病んで……」の時点では芭蕉はまだ「病が治るかも」という期待をしていたと考えられる。その後、重篤に至り、もう無理だと察したあとに、本当の「辞世の句」を手ずから書き残したというのは十分ありうることなのだ。



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〈プロフィール〉
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の戦士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年短編「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『水霊(ミズチ)』『辛い飴』『チュウは忠臣蔵のチュウ』等、著書多数。
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