連載
浮世奉行と三悪人
第八話 鴻池の猫の巻 田中啓文 Hirofumi Tanaka


 夜。
 安治川にかかる船津橋(ふなつばし)を男は渡っていた。彼は雑喉場(ざこば)の若いもので、野田村で行われていた賭場で遊んでの帰り道である。持ち金をほとんどすってしまったので、気持ちは荒(すさ)んでいた。
「ほんま、今日は負けたなあ。丁と張れば半と出る、半と張れば丁と出る。ケツのけばまでむしられてしもた。あれ、もしかしたら……イカサマやったんとちがうやろな。ああ、情けない。しばらく水飲んで暮らそ」
 今夜の月は明るすぎるほど明るい。その明るささえも、嘲笑われているように思えて腹立たしかった。男は橋の真ん中で立ち止まると、立ち小便をはじめた。すっかり出し終えたあと、ふと川のなかをのぞきこむと、なにか丸いものが川面(かわも)をすーっと動いていくのが見えた。
(なんじゃ、あれ……)
 目を凝らす。月明かりに浮かぶそれは、ひとの頭のようだった。
(土左衛門か……? けど、泳いどるみたいやな……)
 頭のようなものの少し後ろにはこぶのようなものもある。雑喉場で働き出してかなり長い彼だが、こんなものはこれまで見たことはなかった。
(でかい魚やろか。あんなずんぐりむっくりの魚おらんわなあ……)
 この世にはよく知られている魚のほかに、驚くほど多種多様な変わった魚がいるのだ、ということも彼は知っていた。
(カワウソか……? いや、ちがうな……)
 カワウソは大きなイタチのようなもので、全身に茶色い毛が生えているし、頭も小さい。水揚げした魚を盗み食らうので、雑喉場のものは日頃から気を付けており、見誤ることはありえなかった。もっとよく見ようとした男は、橋を渡りきると土手を駆け下り、丸い物体が浮いていたあたりを見やった。しかし、藻や浮草、木っ端などのほかにはなにも見当たらなかった。
「逃げてしもたか……。しょうもな。捕まえて見世物にしたら儲(もう)かると思たんやけどな……」
 男が舌打ちをした瞬間、眼前の水面がふたつに割れて、白い坊主のようなものが立ち上がった。
「ひえええええっ!」
 男は仰向けにひっくり返り、その拍子に土手から川のなかに滑り落ちた。岸に這い上がろうともがけばもがくほど手がからまわりし、土を摑んだまま水中に落ち込んでいく。
「たたた助けどくなばれ! すんまべん、捕ばえて見世物にずるやなんて嘘だっざがい……がばごぼがばごぼがばごぼ……」
 したたかに水を飲んだ男は、気を失った。



 2        10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 次へ
 
〈プロフィール〉
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。
Back number
第八話 鴻池の猫の巻3
第八話 鴻池の猫の巻2
第八話 鴻池の猫の巻
第七話 鬼の霍乱(かくらん)の巻3
第七話 鬼の霍乱(かくらん)の巻2
第七話 鬼の霍乱(かくらん)の巻