連載
浮世奉行と三悪人
第八話 鴻池の猫の巻 田中啓文 Hirofumi Tanaka

「雑喉場にほど近い山田町の話でおます。ある秋の夕暮れ、棒手振(ぼてふ)りの魚屋が盤台を洗(あろ)うておりますと、一匹の猫がやって参りました。腹を減らしとるらしく、足がふらふらしとります。猫は売れ残ったイワシに近づくと、うれしさのあまり、ひょいと後ろ足で立ち上がったのでございます。驚いた魚屋が、『この化け猫!』と叫んで朸(おうこ)を振り上げますと、こちらをきっとにらみつけ、『見たなあ……!』ひとの言葉をしゃべったのです。魚屋は夢中で朸を振り下ろすと、それがちょうど猫の左のこめかみに当たりました。猫は立ったまま、暗闇のなかに消えてしまいました……」
 しゃべっていて夢八はだんだん怖くなってきた。しかし、原西屋と芸子たちは、
(なにが怖いねん……)
 という顔つきである。
「家に入った魚屋が、ふと見ると、歳(とし)とった母親が布団を引き被ってうんうん唸(うな)りながら寝ております。『なんや、おかん。風邪でもひいたんか』……そう言って布団を剥ぐと、母親は左のこめかみから血を流しております。まさか、と思いながらも、朸を摑むと、母親の口が耳まで裂け、耳がにょきにょきと伸び、口のまわりに髭が生え、目に妖しい光が宿り……まったく猫の顔になったのでございます。立ち上がった母親は手足の爪も長くなり、尻からは二本に分かれた尾が伸びております。『おのれ、おかんは猫又に食われてしもたのか!』魚屋はそう言って朸を槍のように突き出したところ、その先が過たず母親の心の臓に命中し、母親は絶命したのでございます」
 夢八の声は次第に震え出した。思いつくままでたらめをしゃべっているだけなのに、その光景を頭に描いてしまい、怖くてたまらぬのだ。
「死んだ母親は、いつのまにかもとの姿へと戻っており、口も耳も爪もまともになってます。これは一時の気の迷いから母親を殺してしもうたか、なんたる罪深いことを……と蒼白(そうはく)になった魚屋が商売ものの出刃包丁で腹を切ろうとしているところへ、家主(いえぬし)が飛び込んで参りました。『これ、なにをするのや!』じつはこれこれこういうわけと魚屋がいきさつを話しますと、家主も『たしかに猫が化けてるようには見えんが、早まったことしてはならん。しばらく様子を見ようやないか』……と落ち着かせ、ふたりで母親の死体をじっと見つめておりますと、半刻(はんとき)ほどしたころ、徐々に毛が生え、耳が伸び、口が裂けて大きな猫の正体を現した……というお話でございます」
 夢八は汗びっしょりになって話し終えたが、原西屋は面白くもなさそうな顔つきで盃(さかずき)を口に運びながら、
「しょうもない。ようある猫又の話やないか。あれから怪談の腕を磨いたかと思て呼んでやったのに、まるっきりやないか。もっと修行せえ」
「へえ……すんまへん」
 腕を磨くもなにも、怖い話をするのも聞くのも大嫌いなのだ。修行するなら、まずは怪談を怖がらぬことからはじめねばならない。
「ほな、これが祝儀や。取っといて。つぎはええ怪談聞かせてや」
 原西屋は祝儀袋を芸子に手渡し、芸子が夢八にそれを渡した。
「今日はご所望のとおりにいかず申し訳おまへんでした。また、よろしゅうお願いいたします」
 頭を下げて、廊下に出る。階段を下りようとして、なにげなく隣の座敷に目をやると、障子になにかの影が映っている。空いているはずなのだが、だれかがなかで行灯(あんどん)を点けているようだ。
(消し忘れやろか……)
 物騒だと思った夢八が障子に手をかけたとき、その影がなんであるかわかった。猫だ。後ろ足で立った猫が行灯の油を舐(な)めようとしているのだ。
「ひゃあああああっ……!」
 夢八は甲高い悲鳴を上げ、後ずさりした。つぎの瞬間、足もとが消え、夢八は階段を後ろ向きに転がり落ちていた。



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〈プロフィール〉
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。
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