連載
浮世奉行と三悪人
第八話 鴻池の猫の巻 田中啓文 Hirofumi Tanaka

(なに勝手なこと抜かしとんねん……)
 夢八は布団のうえに座ると、後頭部を撫(な)で回した。痛くもなんともない。そうなるとこの狭い部屋にじっとしているのは苦痛だ。祝儀袋を開けて中身を見る。
(おっ……!)
 なるほど、三日分どころか五日分ぐらいの祝儀が入っていた。
(張り込んでくれたなあ……)
 原西屋の謝罪の気持ちが伝わってきた。こうなると、祝儀の手前、言うことをきかねば申し訳ないという気になってくる。
(しゃあないな。寝てこまそか……)
 横になり、布団をかぶってみるが、彼のような稼業のものにとってはまだ宵の口である。なかなか眠れる……ものでは……な……。
 ふと目を覚ます。
(寝てたんか……)
 あたりは静まり返っている。もう深夜を過ぎたのだろう。遠くから夜泣きうどん屋の建前がかすかに聞こえてくる。そろそろ夜が明けるころと思われた。
(しゃあない。また寝なおすか……)
 そう思ったとき、夢八は尿意に気づいた。こればかりは辛抱するわけにはいかぬ。夢八はそろそろと障子を開け、部屋を出た。秋の夜の寒さが身にこたえた。音を立てぬよう階段を下りて一階の厠へ行き、用を足すと、ふたたび部屋へと戻る。どうしても階段がみしみしと軋(きし)む。つま先立ってゆっくり一段ずつ上がり、自分の部屋のまえに着いた。行灯を点けておいたつもりだったが、いつのまにか消えていた。夢八は真っ暗な部屋にそっと右足を踏み入れた。
 そのとき。
 足先にむくむくとした毛むくじゃらのものが触れた。それは生温かく、動いていた。生きものだ。犬でも猫でもイタチでも狸(たぬき)でもないことは断言できた。彼が知っているどんな獣ともちがっていた。もっと大量の長い毛の塊だ。夢八は、かつて聞いた「毛羽毛現(けうけげん)」という妖怪のことを思い出した。全身がもじゃもじゃとした毛で覆われており、縁の下などに棲(す)む。この妖怪が宿るとその家からは病人が出るなどと説くものもいる。
(化けものや……!)
 夢八は思わず、ぎゅっとその塊を踏みしめた。
「ぎゃあおおおお……んっ!」
 この世のものとも思えぬ叫び声がして、足のしたでなにかがもがき、暴れた。夢八は恐怖にかられ、這うようにして廊下に出ると、
「た、た、た、助けてくれえっ!」
 大声で助けを求めた。あちこちの部屋の障子が開き、客たちや若いものたちが顔を出した。
「なんやねん、夢八っとん。うるそうて寝てられへんがな」
「す、すんまへん。化けもんが出たと思うたもんで、その……」
「化けもん? どこにおるんや」
 皆は灯(あか)りを手にして、夢八が寝ていた部屋のなかをくまなく照らしたが、どこにもそれらしいものはいない。
「頭打って、おかしなったんとちゃうか」
「ねぼけて夢でも見たんやろ。夢八だけに、な」
 強いて反論する気にもなれず、夢八はひたすら謝り倒した。そして、新地の門が開くのを待ちかねて表へ出ると、逃げるように立売堀(いたちぼり)へ帰ったのである。



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〈プロフィール〉
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。
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