連載
浮世奉行と三悪人
第八話 鴻池の猫の巻 田中啓文 Hirofumi Tanaka

「すると、三人の町人が川端にてわめき合(お)うておる。酔うたうえでの喧嘩か、と思ったわしが、『なにごとだ。わしは東町奉行所与力八幡弓太郎である。深夜に騒ぎ立てると諸人が迷惑する。ちと慎みなさい』……そう申すと、町人どもはへこへこしながら、『これはこれは町方の旦那でおましたか。そやおまへんのや。あれを見とくなはれ』としきりに川面を指差すのだ。わしが、『どこじゃ、見えぬぞ』『あそこですがな』『あそこではわからぬ。もっとわかりやすう申せ』『あそこや言うとるのに……わからんおひとやなあ』『なに? 役人に向かってわからんやつとは無礼千万』『あの杭(くい)が出てるところですわ。ほら、あそこ』……」
 どうやら八幡は、話が絶望的に下手のようだ。これから先が思いやられる、と皐月は思った。
「見ると、川のなかから坊主頭のようなものが突き出ておるではないか。『身投げか』『いえ』『泳いでおるのか』『いえ』『ではなんだ。じれったいのう!』『見たらわかりまっしゃろ。海坊主ですがな!』『う、海坊主だと』……だが、そんなことを言うておるうちにそやつは川のなかに沈んでしまい、二度と現れなかった」
 それならはじめから「安治川で海坊主を見た」と言えばすむことだ。
「町人どもに話を聞くと、近頃、あのあたりで頻々(ひんぴん)と目撃されておるらしい。おまえは耳にしておるか」
「いえ……」
 海坊主の話など、聞いていたとしてもそれが町奉行所とどういう関わりがあるのか……。
「それは定町廻りとして怠慢千万ではないか。ただちに調べよ」
「なれど、その海坊主はひとを害したり、悪さをしたりしたのでございますか」
「それは聞いておらぬ。だが、たとえ今はなにもしていなくても、海坊主などと申すものはいずれひとを食ったり、水中に引きずり込んだりするに決まっておる。そうなってからでは遅い。今のうちに手を打っておかねばならぬ。そうではないか?」
「は、はい。さようでございますな。――で、八幡さまがご覧になられた海坊主というのはどのようなものでしたか」
「うむ。それが、暗(くろ)うてよう見えなかったが、たしかに坊主頭のこどもが顔を出しておるようであった。遠目ではあったが、目も鼻も口もあったと思う」
「海坊主なのに川にいるとは面妖でございますな」
「安治川は海水と淡水が混じり合うておる。海坊主が棲んでおっても不思議はないぞ」
「はあ……」
「知っておるか。海坊主というのは海入道、海座頭(うみざとう)などともいって、夜の海に現れる物(もの)の怪(け)じゃ。大きなものは船を沈めるほどだという。小さなものは身体がぬるぬるしているらしい。煙草(たばこ)の煙を嫌うゆえ、船頭や漁師は海に出るときは煙草をかならず持っていくというぞ」
 八幡の口調が急に熱を帯びはじめた。



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〈プロフィール〉
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。
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