連載
浮世奉行と三悪人
第八話 鴻池の猫の巻 田中啓文 Hirofumi Tanaka

「ほかにも海の怪異には、海難法師、船幽霊、不知火(しらぬい)、しらみゆうれん、いくち、さざえ鬼、人魚、磯女などがおる」
「よくご存知ですな」
「『化けもの図会』という書物に出ておったのじゃ」
 皐月は呆れた。『化けもの図会』というのはこども向けの絵草紙ではないか。
「わしが思うに、あれは海坊主のこどもであろう。大きく育つと船を襲うようになるかもしれぬ。いずれたいへんなことになる。そうであろう」
「そうですそうです。まったくです」
「いや、今でも魚などを盗み食らうておるはずじゃ。雑喉場の連中は困っておるだろう。よいか、皐月。かならずやあの海坊主を召し捕って、東町奉行所の、いや、わが八幡組の名を高らしめるのじゃ」
「ははーっ」
「のう、皐月」
「はい?」
「『化けもの図会』、貸してつかわそうか」

 皐月親兵衛は与力溜まりを出たところで、物書方を務める佐倉崎という同心に会った。
「どうした、顔色が悪いぞ。風邪でも引いたか」
 普段は快活な佐倉崎が元気がなさそうなので皐月がそう言うと、
「いや、そのようなことはない」
「まさかと思うが、おまえのところの小者が見たという槌転びとかいう化けもののことが気になっておるわけではあるまいな。口さがないものどもが面白おかしく言い触らしているだけだ。そんなものおりはせん。ただの絵空事だ」
 佐倉崎はため息をつき、
「そうではないのだ……」
「なにがそうではないのだ。小者が暗がりでなにかを見間違え、仰天して財布を落としたので、物の怪のせいにしたのだろう。おまえが思い悩むことはなかろう」
「槌転びはたしかにいる」
「いないと申すに」
 佐倉崎は皐月親兵衛をにらみつけ、
「おるのだ。わしはこの目で見た」
「――え?」
「槌転びに遭(お)うたのはこのわしだ。小者ではない。わしが槌転びに驚き、失神し、気が付いたときには財布がなくなっておった。まわりを探したが見当たらぬ。朝になってからもう一度探しに行ったが、やはりない。あまりの失態に怖くなり、内緒にしておったが、どうやら家のものがしゃべったらしい。しかたなく小者の身に起きたことにしたが……まことはわしのしくじりなのだ」
「そうであったか……」



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〈プロフィール〉
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。
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