連載
浮世奉行と三悪人
第八話 鴻池の猫の巻 田中啓文 Hirofumi Tanaka

「皐月、槌転びはおる。わしが見たのだから間違いはない。夜中に源八のあたりに行ってはいかんぞ。くれぐれも申しておく」
「それはわかったが……なにゆえおまえが青い顔をしておるのだ」
「槌転びに嚙まれたものは死ぬそうだが、見ただけで患いつくらしい。わしはまだ死にたくはない」
「はははは……馬鹿を言うな。蛇を見ただけで患うわけがない。気にせぬことだ」
「ひとごとだから呑気(のんき)にそう言えるのだ」
「では、おまえのほかにその槌転びを見たものは皆病に伏せっているのか?」
「いや……そこまでは知らぬが……」
「うわばみというてひとを呑むような大きな蛇もおるそうだが、そんな小さな蛇、なにを怖れることがある。踏んづけて、蹴飛ばしてやれ」
「そ、そうだな……たしかにおまえの申すとおりだ」
「場所が近所ゆえ、うちの娘も町奉行所で捕獲してくれ、などと申しておったが、叱りつけてやった。町奉行所をなんだと思うておるのだ。蛇捕りに精を出すほどわれらは暇ではない。そうであろう」
「まったくだ」
 佐倉崎同心が元気を取り戻したので、皐月は町奉行所を出た。その足取りは次第に重くなっていった。小者の大七(だいしち)に持たせた風呂敷には『化けもの図会』が全巻入っている。
(なにゆえ町奉行所の同心が「海坊主」を召し捕らねばならぬのか……)
 佐倉崎に「蛇捕りに精を出すほどわれらは暇ではない」と言った手前、海坊主について口にはできなかった。どちらも、お上の御用とはとうてい思えぬ。
 磐石(ばんじゃく)だった徳川二百五十年の屋台骨も昨今は緩みはじめ、天領であるここ大坂の地にもあちこちから食い詰めた浪人ものや無宿ものが増え、町方の出番、とまでには至らぬまでも、日々犯罪が横行している。未(いま)だ天保(てんぽう)の飢饉(ききん)や大塩焼けのせいで難渋しているものも多い。横町奉行も忙しいはずだと思われた。
(そんな時世に海坊主などを追いかけていてよいのだろうか……)
歩きながら皐月はひょうたんのように長い顔をつるりと撫でた。
「おっと、旦那、ここにいてはりましたか」
 そちらを向くと、生白い顔をした三十歳ぐらいの町人が立っていた。
「えーと、おまえはたしか……」
「へえ、以前に旦那のご厄介になったことのある『間抜けの半平(はんぺい)』でおます」



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〈プロフィール〉
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。
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