連載
浮世奉行と三悪人
第八話 鴻池の猫の巻2 田中啓文 Hirofumi Tanaka


 さて、その翌日である。そろそろ八つ半という頃、雀丸は目を真っ赤にして最後の仕上げに取りかかっていた。二晩続けての徹夜はさすがにきつい。だが、あと少しでできあがる。しかも、自身の目から見ても、かなりの出来映えであった。これならあの依頼主も喜んでくれるだろう……と雀丸は思った。全部で三両の減額はつらいが、職人として納得のいく仕事ができたことで雀丸は満足していた。
(さあ、あと少しだ……!)
 気合いを入れるつもりで顔をパン! と両手で叩いたとき、
「すんまへーん……」
 おずおずとした声に、ぎょっとして振り向くと、根子屋の丁稚玉吉だった。
「玉吉さん、今日は籠って仕事をしなければならないと言ったでしょう。なにかあるにしても、明日にしてください。どうかお願いします」
「それがその……」
 玉吉は泣きそうな顔で下を向いている。さすがにかわいそうになり、
「なにかあったのですか?」
「へえ……雀丸さんがお忙しいとはわかってましたんやけど、ほかに言いにいくとこがのうて、たまらんようになって来てしまいましてん。すんまへん……」
「仕事をしながらでよかったらお聞きしますよ」
 うながすと玉吉はしゃべりはじめた。
 昨日、ここから根子屋に帰ると、店のまえでひとりの男が立っている。頭に頭巾(ときん)をかむり、鈴懸(すずかけ)に結袈裟(ゆいげさ)といういでたちで、背には笈(おい)と肩箱、金剛杖(こんごうづえ)を持った手で最多角(いらたか)の数珠を揉んでいる。どこからどう見ても山伏である。
「おお……おおお……ボロンボロ、ボロンボロ。ボロンボロ、ボロンボロ。それ山伏と言っぱ山に起き伏すによっての山伏なり。橋のしたの菖蒲(しょうぶ)は誰が植えた菖蒲ぞ。折れども折られず、刈れども刈られず。ボロンボロ ボロンボロ……」
 わけのわからない呪文を音吐(おんと)朗々唱えながら、暖簾のまえから動かぬその山伏に、玉吉は気味悪そうに話しかけた。
「あの……この家になんぞご用だすか」
「不吉じゃ」
「――へ?」
「不吉と申したのじゃ」
 目が細く、唇の分厚い鉤鼻(かぎばな)男で、上唇を舐(な)めるようにして話す。
「どういうことだす」
「ここなる店には不吉の種がある。それを祓(はろ)うてつかわそう。なかに案内いたせ」
「縁起の悪いこと言わんとくなはれ。うちにはそんなもんおまへん」
「いいや、ある。かならずある。その証拠に店のまわりに怪しき黒雲のごとき気配が立ち込めておる。おお、そうじゃ。それはまるで……」
「まるで……?」
「黒き猫のような形じゃ」
 どきっとした玉吉に山伏は近づいて、
「この店では黒猫を飼(こ)うておるか」
「へ、へえ……」
「その猫を見せてみよ」
 玉吉が言われるがまま、その山伏を店のなかに入れると、手代や番頭たちが仕事の手をとめてふたりを不審そうに見た。



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〈プロフィール〉
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。
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