連載
浮世奉行と三悪人
第八話 鴻池の猫の巻2 田中啓文 Hirofumi Tanaka

 そして、コマタに向かってなにか文字の書かれた札のようなものを突きつけ、
「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)、念彼観音力、念彼観音力……呪詛諸毒薬(じゅそしょどくやく)、所欲害身者(しょよくがいしんじゃ)、念彼観音力、還著於本人(げんじゃくおほんにん)、或遇悪羅刹(わくぐうあくらせつ)、毒龍諸鬼等(どくりゅうしょきとう)、念彼観音力、時悉不敢害(じしつぶかんがい)……さあ、この家に憑(つ)きたる悪魔よ、その正体を現すがよい!」
 だが、コマタは「にゃう?」と鳴くだけだ。山伏はますます声を張り上げ、
「はらこう、はらこう、はらこうや。橋のしたの菖蒲は誰(た)が植えそめし。いち殿、二位殿、三位殿、四位殿、五炒り豆に六地蔵。はらこう、はらこう、はらこうや……」
 ほとんど絶叫に近い声で叫びながら猫のうえで護符をびゅんびゅん振り回す。そのうちに護符がちぎれたので驚いたコマタはぴょいとどこかに行ってしまった。
「さあ、わが法力によりしばらくは禍事は起こるまい。なれど、すぐに物の怪は戻ってくるぞ。悪いことは言わぬ。あの黒猫をわしに預けよ。たちどころに魔物を祓うてやる。さもなくばまたぞろおまえ方の身に凶事が起ころうぞ。家じゅうをネズミが走り回って植木を食い荒らし、火事が起き、食事には毒が盛られ、ついには店は潰れ、一家は離散するまで続くのじゃ。どちらがよいかよう考えてみられよ」
 主の嘉右衛門は、青ざめた顔でしばらく考えたすえ、口を開いた。
「猫は渡せまへん。うちで飼いまっさ」
「なんと? 主、気はたしかか。災いはおのれに降りかかるだけではないぞ。おまえの家族、奉公人、出入りのものにまで及ぶのじゃ。丁稚(こども)が不憫(ふびん)ではないのか、のう、主」
 だが、嘉右衛門はもう迷わなかった。
「丁稚(こども)もかわいそうかもしれまへんが、皆にいじめられてうちへ来てくれたこの猫もかわいそや。どっちも手放すことはでけしまへんわ」
「ふん、せっかくわしが祟りものから救うてやろうと言うておるのにその手を払いのけるとは、あさはかも極まった。皆、枕を並べて死に絶えるがよい」
 吐き捨てるように言うと、山伏は店を出ていった……。
「そうですか……」
 雀丸の仕上げをする手はいつしか止まっていた。
「後ろに引っ張られたり、ネズミが出るぐらいならともかく、火事や猫いらずは困りますね」
「ほんまにコマタはうちの店に祟る悪い猫又なんだすやろか」
「そんなわけないでしょう。――でも、どうも気になりますね。それではすぐに……」
 雀丸が立ち上がろうとしたとき、暖簾のあいだから外が透かし見えた。
「ああーっ!」
「どないしはりましたん?」
「あのですね……」
 雀丸は玉吉の耳もとになにごとかささやいた。
「だいじょうぶだすやろか」
 不安げな玉吉に雀丸もおぼつかなげに、
「さあ……でも、これしかないんです」
 そう言うと、入ってきた武士に米搗きバッタのように頭を下げ、
「すいません。あと半刻……いや四半刻あればもう間違いなく……」



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〈プロフィール〉
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。
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