よみもの・連載

浮世奉行と三悪人

第十一話 犬雲・にゃん竜の巻3

田中啓文Hirofumi Tanaka


 翌日が果たし合いと迫った日の朝まだき、いまだ夜の虫が鳴き止まぬころ、奈津野由右衛門は屋敷の一室で犬雲の手入れをしていた。打ち粉を振って、目釘が錆びたりゆるんだりしていないか、研ぎの按配はどうか、刀身に指紋などがついていないかなどを調べるのだ。
(見れば見るほどすばらしい刀だ……)
 心静かに刀と向き合っていると、明日のことなどどうでもいいような気分になってくる。もちろん果たし合いには奈津野家伝来のこの刀を用いるつもりだ。普段差している刀に比べ、犬雲を手にすると、腕が五分ばかり上がったように感じられる。急に上達するわけはないので、おそらく犬雲が彼の素質を引き出してくれているのだろう。
(勝負にこだわることはないが、卑怯な手段を使って指南役の地位に納まったものを看過すると、わが先祖に申し訳がない……)
 その思いだけが、彼を「果たし合い」に駆り立てているのだ。刀身を柄に差し込み、鍔と鎺(はばき)を嵌(は)めると、目釘を打った。座ったままで二、三度素振りをくれる。それだけで切っ先が部屋の隅にまで長く伸びていくようだ。
 ガタン、と表のほうで音がした。彼には親も妻子もなく、住み込みの弟子もいない。屋敷にいるのは下男の老人だけだが、一旦寝てしまうと嵐が吹こうと雷が鳴ろうと起きないので、この程度の物音では目覚めることはないと思われた。
(風でなにかが飛んだか)
 はじめは気にもとめなかったが、物音は二度、三度と間隔を置いて続いた。しかたなく由右衛門は刀を鞘に収め、立ち上がった。雪駄を履き、玄関を出て左右を見回す。なにもない。また、ガタッという音が聞こえた。門の外のようだ。くぐり戸を開けると、野良犬が一匹、地面に転がって暴れている。首が木枠のようなものにはまり込んでいて、それが取れずにもがいているのだ。木枠が、奈津野家の門や壁にぶつかるたびに音がしていたらしい。
「だれだ、こんないたずらをしたのは。かわいそうに……」
 由右衛門はそうつぶやくと、木枠を割って外してやった。犬は頭を下げるようなしぐさをしたあと、どこかに走り去った。動物を助けたことで満足した由右衛門が屋敷に戻り、廊下を歩いていると、今度はおのれの部屋からカタカタ……というかすかな音が聞こえた。虫の声よりも小さいその音は、剣客でなければ聞き逃していたであろう微細なものであった。襖(ふすま)は開けっ放しだ。由右衛門は足音を殺してゆっくり近づくと、部屋に躍り込んだ。
 しかし、そこにはだれもいなかった。天井を見ると、板が一枚ほんの少しずれている。もとからそうなっていたものか、今のあいだにだれかが忍び込んだものか、由右衛門にはわからなかった。
(先日、犬雲にえらく執心の町人がいたが、まさかあのものが……)
 犬雲を抜いてみる。相変わらずの麗しい刀身がそこにあった。切っ先から鎺のところまで検分して、由右衛門は安堵の息を漏らした。ほかに盗られたものもなさそうだ。
(気のせいだったか……)
 刀を鞘に収め、刀掛けに置いたとき、老僕が朝餉(あさげ)の支度をはじめる音が聞こえてきた。

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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