よみもの・連載

浮世奉行と三悪人

第十一話 犬雲・にゃん竜の巻3

田中啓文Hirofumi Tanaka


 結城外三郎(ゆうきとさぶろう)は、博労稲荷(ばくろういなり)神社の境内にある茶店の床几に座り、五本目の酒を飲んでいた。難波神社と同じ場所にあるこの神社は船場(せんば)の商家の信仰を集めている。外三郎の唇の端は知らぬまにめくれあがっていた。つまり、笑っているのだ。
 身の軽さが自慢の元盗人に金を渡して、奈津野屋敷に忍び入り、刀をすりかえてこい、と言いつけたのだが、それがものの見事に上手く運んだ。盗んでいるところを見られることもなく、証拠も残さなかったという。ならば、由右衛門に、おまえが盗んだのだろうと言われても、知らぬ存ぜぬで押し通せばよい。それで外三郎は少し気持ちが大きくなっていた。
(もし、あいつが刀が竹光であることに気づかなければ、わしの勝ちだ。竹光だと気づいたところで、犬雲ではない刀を手にした奈津野など恐るるに足らぬ。いずれにしてもわしが有利であることに変わりはない。しかも、立会人のおらぬ野良試合。負けそうになれば、またそのときは考えがあるわい……)
 ほくそえみながら、がぶり、と酒を口に含んだとき、
「お助けくださりませ。お助けくださりませ」
 突然、若い武家娘が外三郎の膝にしがみついてきた。
「どうなされた」
 面食らった外三郎がそう言うと、
「無頼漢に難癖をつけられて難渋しております」
 外三郎があたりを見渡しても、それらしい男の姿はない。
「だれもおらぬようだが……」
「おそらく、あなたさまにおすがりしたのを見て、逃げ去ったものかと思います。お助けいただきありがとうございました」
「いや……それがしはなにもしておらぬが……。お供のものはどうなすった」
「無頼漢から逃げるときにはぐれましてございます。きっと私の身を案じておりましょう」
「それは心細かろう。屋敷までお送りしたいが、身どもは大事の用があってそうは参らぬ。気をつけてお帰りなされ」
「はい。なれど、せっかくお助けいただいたのになんのお礼もせぬのは心苦しく思います。せめてお酌などさせてくださりませ」
 娘は外三郎に身体を近づけると、徳利を取り上げて酌をした。それがあまりに自然な動作だったので、外三郎も思わず湯呑みを持ち上げて応じた。
「ううむ……酌はたぼとか申して、酒は注ぎ手によって味の変わるものだが、たかのしれた茶屋の安酒が甘露の味わいだ」
「ほほほほ……口がお上手でござります」
「嘘ではない。まことの話だ。――そなたも一献参らぬか」
「私はとんだ不調法でござりますれば……」
「よいではないか、一杯ぐらい。無理にとは言わぬ。せめて酒の香なりと嗅いではいかがかな」
「そこまでおっしゃいますならば、おつきあいさせていただきます。――でも、盃(さかずき)がございませぬ」
「ああ、よいよい。身どもが茶店に言うてやる」
 外三郎はよろよろと立ち上がり、茶店のなかに入ると、
「おい、盃をひとつくれい。それと、酒がもうないぞ」
「お武家さま、ずいぶんとお飲みだすなあ。あまりお過ごしにならんほうが……」
「やかましい。今からあの娘と一献傾けるのだ。ふふふふ……」
「あの娘て、どの娘だす?」
「ほれ、あそこにおろうが」
 外三郎が床几を振り返ると、そこにはだれもいなかった。驚いて、自分が今まで座っていた場所に駆け戻ったが、そこにあるのは空の徳利と湯呑みだけで、娘の姿はおろか、犬雲までが煙のように消えているではないか。

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

Back number