よみもの・連載

浮世奉行と三悪人

第十一話 犬雲・にゃん竜の巻4

田中啓文Hirofumi Tanaka



 夜が深くなるにつれ、闇もまた深くなる。消え残っていたうどん屋の提灯(ちょうちん)も一つまたひとつと消えていき、夜明かしで商いをする居酒屋や夜なべ仕事をしている商家などから漏れる灯りが遠くにちらつくだけだ。色里(いろざと)へ行けば夜通し昼と見まがうほど明るかろうが、寺ばかりが軒を並べる下寺町(したでらまち)は漆黒に呑み込まれていた。担ぎのうどん屋などもこのあたりまではあまり回ってこないせいか、しわぶきの音も聞こえるだろうほどの静寂(しじま)のなかで、まもなくふたりの剣客による決闘が行われようとしていた。
 大窟寺(だいくつじ)というのは、最近本山とのごたごたがあって無住になった寺で、今はだれも住んでいない。その境内に、結城外三郎(ゆうきとさぶろう)は足を踏み入れた。まだ約束の八つ半までには半刻(はんとき)もある。奈津野由右衛門(なつのよしえもん)がずるい仕掛けを施すとは思えなかったが、待ち伏せや罠を避けるには早く行くに越したことはない。月はない。外三郎が持っている提灯の灯りだけが周囲をぼんやりと照らしている。境内がどれほど広く、またどこになにがあるか、などは到底わからぬ。しかし、外三郎はこの日に備えて、幾たびかここを訪れ、様子を調べてある。腰にはにゃん竜がある。支度は万全だ。
 外三郎は、境内の奥に生えている楠(くすのき)の古木に向かった。それを背にして立ち合うのがもっとも有利であろうと考えたのだ。しかし、近づくにつれ、楠のまえにだれかいることに気づいた。提灯を突き出す。灯りのなかに凝ったひと影は、奈津野由右衛門のものだった。
「奈津野……来ておったか」
「おぬしも早いな」
「ふふ……気が急(せ)いてな」
 奈津野由右衛門の足もとには提灯が置かれているが、火は消えている。つまり、それほど早くからここにいたということだ。外三郎は、先手を取られたようで、いい気はしなかった。ふたりは自然と間合いを置いて向き合った。
「約束の刻限はまだだが、はじめようか」
 由右衛門が言ったので、嫌だとも言えぬ。
「そ、そうだな。それがしはかまわぬよ」
「ならば、やるか。立会人もおらぬゆえ、この果たし合いが行われることも、その結果も、知るものはわれらふたりだけだ。それゆえ正々堂々と勝負しようではないか」
「もちろんそのつもりだ」
「真剣での試合だが、どちらかが『参った』と言えばそれまで。どちらが強いかさえ明らかになればよい。相手を傷つけるのは本意ではない。もし、拙者が勝ちを得ても、試合の勝ち負けについて公にするつもりはない」
「わかっておる。――だが、この勝負、おぬしの負けだぞ」
「なに? やるまえからわかろうはずがない」
「いや、おぬしの負けだ。それがしは五年間、家中の侍たちに日々稽古をつけてきた。おぬしはそのあいだ相手にしていたのは百姓、町人だけだ。気づかぬうちに腕もなまる」
「たしかにうちの門弟たちのほとんどは武士ではない。しかし、ひとりで鍛錬を積んできた」
「剣術はふたり以上でやるもの。ひとりでいくら鍛えても、それは無駄というものだ」
 そのとき楠の幹の裏から声がした。
「無駄か無駄でないか、わしが見届けてやろう」
 由右衛門も外三郎もぎょっとして巨木を見た。楠の後ろから現れたのは、杖をついたひとりの老人だった。軽衫袴(かるさんばかま)を穿き、脇差(わきざし)を一本差している。
「先生……!」
 由右衛門は叫んだ。それは、ふたりの師である心形刀(しんぎょうとう)流の森山無軒(もりやまむけん)であった。

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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