よみもの・連載

浮世奉行と三悪人

第十一話 犬雲・にゃん竜の巻4

田中啓文Hirofumi Tanaka

「そやないねん。やっぱり今晩泊めてほしいねん」
「だから言ったでしょう。あれだけ飲んだら天王寺まで帰るのは無理だって……」
 言いながら雀丸がくぐりを開けると、泥だらけの鬼御前が転げ込むように入ってきた。驚いた雀丸にかまわず、鬼御前は泳ぐように酒樽のところにたどりつき、柄杓(ひしゃく)できゅーっと一杯飲んだ。そして、その場に座ると、
「なあ……雀さん、聞いてえな」
「はい、なにをでしょう」
「今、兄さんと会うたんや」
「え? 武田(たけだ)さんにですか」
「そや……」
 鬼御前は、酔っ払って最後に竹光屋を出たあと、ふらふらと浮世小路(うきよしょうじ)を東へ向かった。
「あははは……ああ……酔うた。おもろかったなあ。次郎長さん……ええ男やったなあ……」
 自分ではつぶやいているつもりなのだろうが、実はかなりの大声で独り言を言っている。
「ちゃちゃん、ちゃんときてちゃんちゃんちゃん……か。ちちん、ちんときてちりとてしゃん。ああ、すたこらさっさのほいさっさ。狸(たぬき)が浮かれてぽんぽこぽん、狐(きつね)が真似してこんこらこん……」
 わけのわからない歌を歌いながら高麗橋(こうらいばし)を渡ろうとした、そのとき、
「死ねっ!」
 声とともになにかが柳の木の陰から飛び出してきた。刃がぎらりと提灯の灯りに光った。鬼御前は身体をひねってかわそうとしたが、なにしろへべれけなので思うようにならず、その場に倒れた。腰をしたたか打って、立ち上がれない。相手は匕首(あいくち)らしきものを振りかざしながら鬼御前にのしかかってきた。それが、谷町の六郎七であることを鬼御前は見て取った。
「谷町の親方、闇討ちとは卑怯やないか」
「やかましい! おのれのせいでわしは縄張りも子方も失(うしの)うてしもた。このうえはおのれを殺(や)らんと腹立ちが収まらんのや。こうなったら死なばもろともで、おのれをぶっ殺したる!」
 自暴自棄になった六郎七は、鬼御前の胸目掛けて匕首を振り下ろした。
「馬鹿者!」
 周囲の空気を震わせるほどの大喝が轟(とどろ)き、六郎七は胸板を突かれて横向きに倒れた。
「だ、だれや!」
 身体を起こすと、六郎七は匕首を構え直した。鬼御前はてっきり、雀丸が追いかけてきたものと思ったが、そうではなかった。立っていたのは鬼御前の兄で駿府城代配下の役人、武田新之丞(しんのじょう)だった。新之丞が六郎七の腕を摑んだ途端、六郎七は、
「ぶぎゃーーーーーーっ!」
 どこにどう触れたのかはわからないが、何丁も先まで聞こえるほどの大声を上げた。よほど痛いのか、六郎七は泣きながら地面を転がりまわった。ようやく態勢を立て直し、ふたたび匕首を手にすると、
「邪魔するな!」
 そう叫んで、今度は新之丞に襲い掛かった。新之丞は軽くいなすと、匕首を持ったほうの腕を背中側に引っ張り、ぐいと曲げた。

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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