よみもの・連載

浮世奉行と三悪人

第十六話 三すくみ崩壊の巻

田中啓文Hirofumi Tanaka

 雀丸はぺろりと舌を出すと、腹掛けも外さずに台所へ行ったが、飯を炊くのがだんだん面倒くさくなってきた。水を替えながら米を何度も研ぎ、水加減を調えて、へっついで炊き上げるのだが、そのあいだずっとつきっきりで火の具合に気を配らなければならない。それでも焦がしたり、生炊きになったりすることもある。そうなったら最後、加似江の機嫌は最悪になって戻らないだろう。じつは、仕事場の隅になにげなく転がしてある竹筒のなかに、わずかばかりのへそくりを隠してあるのだ。雀丸はそれに手をつけることに決めた。
「ええ、お祖母さまに申し上げます」
「なんじゃ」
「今から米を研いでいては炊き上がるには当分かかります。今日のお昼は、『アンメリ軒(けん)』で食べませんか」
「なんじゃ、その妙な名は」
「ご存知ないですか。この小路にメリケン料理の店ができたんです。今朝、開店の引き札が入ってましたよ」
 竹光屋がある浮世小路は、高麗橋筋(こうらいばしすじ)と今橋筋(いまばしすじ)のあいだにある細い通りである。風呂屋、楊弓(ようきゅう)屋、質屋、花屋、餅屋、煙草(たばこ)屋、絵師、稽古屋……といった店のほか、出会い宿や船場(せんば)の商人の妾宅(しょうたく)も多く、浮世の縮図のようだということでそう名づけられたのである。
 そんな浮世小路に数日まえ、「アンメリ軒」という西洋料理の店ができたらしいのだ。
「西洋人が料理をするのかや」
「そんなことはないでしょう。店主は、お祖母さまも知っている屯次郎(とんじろう)です」
「なんじゃ、あいつか」
 加似江は顔をしかめた。屯次郎は板前だ。竹光屋のすぐ近くで、「屯々」という居酒屋をひとりで切り盛りしていたが、彼の出す料理のあまりのまずさに客がつかず、とうとう一年ほどまえに潰れてしまった。雀丸も加似江も近所のよしみで一度訪れたのだが、出てくるもの出てくるものそのまずいこと……驚いてそれ以来行ったことはない。材料はだれでも普通に食べられるものばかりだ。それを切ったり、焼いたり、煮たりしただけなのに、どうしてあんなにまずくできるのか、雀丸にはわからなかった。
「あのときはこりごりした。当たり前の料理もできぬものが西洋料理などできるのか」
「わかりませんが……おそらく長崎に行ってカピタン付きの料理人にでも習ったんじゃないでしょうか」
 雀丸はそう言うと加似江に引き札を手渡した。中央の下段に鼻が高く、蘭服を着た西洋人風の男がなぜか正座して両手を突いている絵が一色刷りで描かれ、そのうえにこう書かれていた。

 朝起きればヤレ阿蘭陀が欠伸(あくび)した英吉利(イギリス)が飛び跳ねた亜米利加(アメリカ)が餅搗(つ)いた露西亜(ロシア)が相撲を取つたと異国に振り回される今般私儀果たして西洋人は日頃何を食しておるのかと興を抱き一念発起亜米利加国に渡りて長年修業の末本日満を持してかねて夢であつたメリケン風料理の店開店つかまつる。珍しいだけにあらず美味(うま)きこと日本料理に数倍する西洋料理は滋養もありて一度食せば魂を奪われること間違いなし。メリケン酒の支度もござります。皆様方に置かれましてはなにとぞ永当(えいとう)永当のご来駕(らいが)あらんことをおん願い奉りまする。

西洋料理アンメリ軒店主屯次郎敬白

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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