よみもの・連載

浮世奉行と三悪人

第十六話 三すくみ崩壊の巻

田中啓文Hirofumi Tanaka

 さんざん飲み食いしたあと、善右衛門は料亭の表に出ようとした。すると、内儀が駆け寄ってきて、
「すんまへん、旦さん。いつもの駕籠(かご)屋に声かけたんだすけど、みな出てしもとるみたいだすのや」
 もちろん鴻池家は自前の駕籠も持ってはいるが、同業者に豪奢(ごうしゃ)な駕籠を見せびらかすのも嫌味である。なので、こういうときは町駕籠を頼むようにしていた。善右衛門は、鶴松(つるまつ)という駕籠屋に籍を置く三太郎(さんたろう)と平助(へいすけ)という駕籠かきが贔屓(ひいき)で、そのふたりが空いていれば彼らに、いなければ鶴松のほかの駕籠かきに声をかけるのが常だった。しかし、今夜はどうした加減か、鶴松の駕籠がすべて出払っているらしい。
「あてがだんどりしときながらどんなこって……。よその駕籠按配(あんばい)してきますさかい、うちらでもう少し休んどいとくなはれ」
 善右衛門は、待っていたふたりの丁稚(でっち)の片方に土産(みやげ)の折り詰めを持たせると、
「ああ、かまへん。ここからやと家もそないに遠ないさかい、酔い覚ましにゆっくり歩いて帰るわ」
 鴻池家は大坂のあちこちに店や別宅を持っていたが、本邸は今橋にある。
「よろしゅおますか。えらい不細工なことですんまへん」
「大事ない。ほな、えらいごっそうさん。近々また来るわ」
 そう言うと善右衛門は内儀に心付けを渡した。
「いつもおおきに」
「旦さん、お気をつけて」
 内儀や店のものたちに見送られながら、善右衛門はもうひとりの丁稚に提灯(ちょうちん)を持たせ、表に出た。夜風がほろ酔いの頰をなぶり、心地よい。ここから難波小橋(なんばこばし)を通って堂島川沿いに東へ向かい、難波橋を渡って今橋へ帰る算段である。
「由吉(よしきち)、あんた、ひとりで先々行ったらどもならんで。わしの足もとを照らしてくれなあかんやないか。歩く幅をわしに合わせて、ちょっとずつ先を歩きなはれ」
「すんまへん、旦さん」
「こういうのは心得ごとやで。――忠吉(ちゅうきち)、あんた、お土産の折りを斜めに持ちなはんな。高野(こうや)豆腐とかの汁はなんぼかはしぼってくれてはるやろけど、全部しぼったらカスつくやろ。斜めにしたらそれがこぼれてしまうがな。両手でまっすぐ、捧(ささ)げ持つようにしなはれ」
「へえ、旦さん、すんまへん」
「そういう細かいことがちゃんとでけてるかどうかで丁稚としての働きがわかるのや。そしたら、うえのもんも目ぇかけてくれるようになる。よそさんからもほめてもらえる。わかったな」
「へえ」
 ふたりの丁稚はうなずいた。

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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