よみもの・連載

浮世奉行と三悪人

第十六話 三すくみ崩壊の巻

田中啓文Hirofumi Tanaka

 その晩は雲が厚く、月明かりはひと筋もなかった。左右の店も戸を閉めている。ひと通りはない。振り返ると、さっきの料理屋は深い闇のなかに沈み、どこにあるかわからなくなっている。ときどき屋根のうえを猫が走る。そのたびに善右衛門は立ち止まり、
「ああ、猫ちゃん……」
 とつぶやくのだ。
 難波小橋を渡り終えたあたりで、善右衛門は額の汗を手ぬぐいで拭い、
「ああ、しんど」
「旦さん、大丈夫だすか」
「近いと思とったけど、案外遠いもんやな。飲みすぎたせいか、身体がほめいてどもならん。やっぱり駕籠を待つのやったかな……」
 そんなことを口にしたとき、少し先に一丁の町駕籠が道を横に塞いでいるのが見えた。先棒のものが提灯を持っており、その光のなかに駕籠全体がぼんやりと浮き上がっている。
「旦さん、ええ具合に駕籠がおます。空(から)駕籠やったら雇いまひょか」
「そやな……由吉、どこの駕籠か照らしてみなはれ」
 丁稚が提灯を高く上げると、駕籠に記されていたのは「鶴松」の紋だった。
「おお、鶴松の駕籠やないか。拍子のええとこで会(お)うたもんや」
 その声が聞こえたらしく、駕籠の前後から、
「もしかしたらそこにおいでになられたのは鴻池の旦さんだすか」
「そや。おまえらはだれとだれや」
「三太郎と……」
「平助でおます」
「はははは。ここで会うたが百年目、いうやつやな。もう放さんで。本宅までは目と鼻の先かもしらんけど、酔いが回ってしんどいのや。行ってくれたら五両出すで」
「ごごご五両だすか!」
「かまへんやろ。ほな、乗せてもらうで」
「それが旦さん……あきまへんのや」
 三太郎の声は暗く、しかもなぜか震えていた。
「なんであかんのや」
「先客さんが乗ってはりますねん」
「なんやて? 悪いけどそのお客さんには理由(わけ)を言うて降りてもらえ。そのお方にもわし、五両出すで」
 平助が、これも震え声で、
「そのお客さんというのが……お侍だすのや」
「お侍でもかまへんやないか。五両であかんのやったら十両払お。こうなったらわしも天下の鴻池や。意地でもその駕籠に乗ってみせる。あかんというなら駕籠ごと買い取ろ。いや……鶴松の店ごと買い取ったかてかまへんで」
 そこまで善右衛門が豪語したとき、駕籠のなかから声がした。
「はてさて……大坂の素町人と申すものは見識の高いものだな。たかが町駕籠に乗りたいがために、万民のうえに立つ武士を相手にその駕籠を買い取ると申すか。不埒千万(ふらちせんばん)。思い上がるのもいい加減にしろ!」
 こうなると善右衛門もあとには引けない。
「お侍さま、どこのどなたかは存じまへんけど、わしは武士が万民のうえに立ってるとは思てしまへん。その証拠に、そのお偉いお侍がみんな頭を下げてうちにお金を借りにきますがな。お大名のご家老さまやお留守居役さまが揉み手をしながら毎日来はります。今の世の中、刀持ってはるより金持っとるものが偉いのやおまへんかいな」
 酔っていたせいか、善右衛門はかなり強い口調になってしまった。言い過ぎたか、と思ったが、一度口から出た言葉は戻すことができない。ふたりの丁稚はどうなることかと青ざめている。

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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