よみもの・連載

浮世奉行と三悪人

第十六話 三すくみ崩壊の巻2

田中啓文Hirofumi Tanaka

「周到な策を立てたうえでの待ち伏せだな。鴻池善右衛門といえば日本一の金持ちだが、それだけに恨みもいろいろと買っているだろう。――わかった。今日は諸御用調役の花井戸蛍四郎(はないどけいしろう)さまがお頭(かしら)との打ち合わせ後、お泊まりになっておられる。もうお休みだが、ことがことだけに、すぐにお知らせしたほうがよかろう。わしがお起こしして言上してまいる」
 諸御用調役与力というのは、全与力の筆頭である。今の東町奉行は石田長門守孝之(いしだながとのかみたかゆき)という三千石の旗本で、つい先月前任者と交代して着任したばかりだった。そのため現在は、諸御用調役与力の花井戸が東町奉行所の万事を取り仕切っていた。
「おそらく今から鴻池の店のまわりを見廻らせるようお指図があるだろう。もしかするとおまえにもご下問があるかもしれぬゆえ、わしが戻るまでここで控えていてくれ」
「かしこまりました」
 渋山与力はすぐに戻ってきた。その表情が曇っているので、
「どうなさいました」
「花井戸さまは、そうか、とだけ申されて、鴻池家に警護の人数を出せ、とも、おまえに話をききたい、ともおっしゃらなかった。わしが重ねて『いかが取り計らいましょうか』ときくと、『たかが商人が追い剥ぎにあっただけだ。放っておけ』と申された。『お頭にお知らせしなくともよろしゅうございますか』と言うと、『お頭はご就寝だ。明日の朝にでもわしから申しておく。下がれ』そう申されてまた布団をかぶって寝てしまわれた。全国の大名家の三分の一に金を貸している大商人が襲われたのだから、もう少しなにかお指図があると思うていたが……」
「我々はどのようにすればよろしいでしょう」
「花井戸さまが、放っておけ、とおっしゃるのだから、放っておくしかあるまい。できることといえば、定町廻(じょうまちまわ)りに鴻池の辺りを念入りに見廻るよう命じるぐらいか……」
「花井戸さまは、商人がお嫌いなのでしょうか」
「さあなあ……とにかくわしらとしては言われたとおりにするしかないな」
 そう言うと渋山与力は腕組みをした。

「船が出るぞー」
「出しますぞー」
 伏見(ふしみ)から下る三十石の朝船は客でいっぱいだった。三十石の船頭が歩み板を引き上げようとするのを、
「待て! その船、出してはならぬ」
 遠くから声がかかった。船頭がそちらを見ると、よく肥えた出家がひとり、ゆっくりと歩いてくる。直綴(じきとつ)に絡子(らくす)という雲水(うんすい)姿ながら、衣は墨染めではなく赤い。笠(かさ)も帯も値の張りそうなものばかりである。よほど身分のある僧なのだろう。荷物はなにも持たず、両脇に付き従っているふたりの従者が大きな荷を振り分けにしている。従者はどちらも身体(からだ)が大きく、腕も太い。腰には長めの道中差(どうちゅうざし)を差し、鋭い目つきで船頭をにらんでいる。

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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