よみもの・連載

浮世奉行と三悪人

第十六話 三すくみ崩壊の巻2

田中啓文Hirofumi Tanaka

「坊さん、乗るのやったら急いでんか。時刻どおりに出さんと役場から叱られるのや」
「わしは早(はよ)うは歩けぬ。酔うておるからな」
「それやったらつぎの船にせえ」
「つぎの船では大坂の用件に間に合わん。わしが行くまで待っておれよ」
「知るかい。――おい、円助(えんすけ)、出してしまえ」
「ええんか。えらそうな坊主やで」
「かまわんわい。ほかの客の迷惑や」
 船頭が櫂(かい)で岸をぐいと突くと、船は進み出した。
「これ、出してはならぬと申したであろう! わしをだれだと心得おる。――助(すけ)さん、あの船を止めい!」
「心得ました」
 助さんと呼ばれた、口の左端に大きなほくろのある従者が走り出し、岸を離れた船に飛び移ると、年嵩(としかさ)の船頭の顔面をいきなり殴りつけた。
「な、なにするんや!」
 船頭は船底に倒れた。
「船を止めろと申したのが聞こえなんだのか」
「無茶しよって。お役人呼ぶぞ」
 船頭の顔は紫色に腫れ上がっている。
「ふふ……まだ殴られたいとみえるな。船を戻すか戻さぬのか」
 べつの船頭があわてて船を岸に戻し、出家がよろめきながら乗り込んできた。
「ああ、間に合うた」
 間に合ったのではなく、むりやり間に合わせたのだが、だれもそのことを口にするものはいない。皆、ふたりの従者が恐ろしいのだ。船頭たちは黙ったまま、赤樫(あかがし)の櫂を使いはじめた。舟歌を歌うものもいない。
「暑いなあ。川のうえは少しは涼しいかと思たら、かえって蒸し暑いわい」
 そう言いながら出家は笠を脱いだ。酒のせいか、額から胸のあたりまでが真っ赤で、茹(ゆ)で蛸(だこ)のようである。大きな欠伸(あくび)をして、
「格(かく)さん、眠とうなってきた。床をとってくれんか」
 町奴(まちやっこ)のような口髭(くちひげ)を生やしたもうひとりの従者が、
「かしこまりました。――おい、貴様ら、大和尚(おおおしょう)が横になりたいとおっしゃっておられる。そこを空けろ」
 客たちは顔を見合わせた。ひとりがおずおずと、
「見てのとおり、ぎゅうぎゅうすし詰めで、場所を空けようにも空けられまへんのや」
「なにい? 素町人の分際で大和尚に意見するつもりか」
「いや、そういうわけやおまへんけど、こうして船に乗ったら大和尚もわてらもお互いさまだす。大坂まで辛抱しとくなはれ」
「ほほう、面白いことを抜かすな」
 格さんと呼ばれた従者はその男の胸ぐらを摑(つか)んで高々と持ち上げると、川に放り込んだ。

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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