よみもの・連載

浮世奉行と三悪人

第十六話 三すくみ崩壊の巻2

田中啓文Hirofumi Tanaka

「うわあっ、助けて! わては泳がれへんのや!」
 沈みかけている男を、若い船頭が飛び込んで抱え上げた。僧侶のまわりにいた客たちは押し合いへし合いしながらなんとか場所を空けた。髷(まげ)の先を刷毛(はけ)のように広げた格さんは笑いながら、
「見ろ。ちゃんと場所が作れるではないか。――大和尚、どうぞ」
「格さん、すまんな。祇園(ぎおん)で朝まで飲み続けやったから、どうもまぶたがとろとろしてかなわんのや」
 そう言うと、太った僧はごろりと横になった。船頭や客たちの視線が集中したが、気にもとめていない様子である。ふたりの従者は、主が眠ったのを確かめると、船柱を背にして座り、酒を飲みはじめた。そのとき、あまりにぎゅうぎゅう詰めになったためか、ある客が連れていた二歳ぐらいのこどもが、突然火が点(つ)いたように泣きはじめた。いくらあやしても泣き止まない。助さんのこめかみに稲妻が走り、
「そこの小児を黙らせろ! うるそうて大和尚が眠れぬではないか!」
「す、すんまへん。けど、こどものことでおます。どうかご勘弁を……」
「ならぬ。どうしても泣き止ませられぬと申すなら……」
 助さんは客に向かって拳を振り上げた。それを見たこどもはなおいっそう、大声で泣き出した。親は仰天して、
「泣くな。頼むさかい泣かんとってくれ。わてが殺される……」
 そのとき、それまでじっとしていたひとりの老僧が立ち上がった。寝ている僧とは対照的に、着物はあちこち破れていて、ボロ雑巾にもならぬような粗末な代物である。また、身体は骨と皮ばかりに痩せており、「鶴のように痩せている」と言いたいところだが、「鶴よりもかなり痩せている」と言ったほうが正確だろう。そして、額からうえがものすごく長い。まるで福禄寿(ふくろくじゅ)のようである。白い顎鬚(あごひげ)を船底につきそうなほど伸ばしており、それをきゅっきゅっとしごきながら、
「皆の衆、ごめんなされや」
 そう言いながら寝ている出家に近づくと、その顔面を踏んづけた。
「うぎゃっ」
 出家は目を開けると、汚らしい足の裏が顔に乗っている。
「な、なんじゃ、これは! 助さん、格さん!」
 老僧は、
「む? なにやら踏んだかのう。さっき犬の糞(くそ)を踏んでしもうたところじゃ。今度も犬の糞でなくばよいが」
 出家は顔を急いで拭っている。従者たちは肩を怒らせ、
「この物乞い坊主。死にたいのか」
「ふははは……わしが物乞い坊主なら、おのれの主は生臭坊主であろう。祇園で浮かれて、船客に迷惑をかけてやりたい放題とはここな売僧(まいす)坊主めが!」

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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