よみもの・連載

浮世奉行と三悪人

第十六話 三すくみ崩壊の巻2

田中啓文Hirofumi Tanaka


「おはようございます」
 東町奉行所に出勤した皐月親兵衛はまず与力溜まりに向かい、八幡弓太郎(やはたゆみたろう)に一礼した。八幡組に所属する皐月にとって、八幡弓太郎は直属の上司なのである。といっても、八幡は皐月親兵衛よりもはるかに年下である。金糸の刺繍(ししゅう)をほどこした羽織を着、黄色の着物に白黒の縞(しま)模様の袴(はかま)という派手な姿に、皐月は目をぱちぱちさせた。
「おお、皐月、昨夜は手柄を立てたそうだな」
「お聞きおよびですか」
「うむ、渋山殿にうかごうた」
「花井戸さまが、朝になったらお頭に伝えておく、と申されたそうですが……」
「そのうちお頭からおほめの言葉があるだろう。もしかすると褒美をくださるかもしれんぞ。なにしろ相手は天下の鴻池だからな」
「なにか鴻池に対してお指図はありましたか。警備を固めよ、とか……」
「いや、それはまだだが、朝会のときにおっしゃると思う」
 町奉行は、朝、仕事まえに与力たちを集め、その日の指図を行うのが通例であった。
「では、行って参る。褒美、期待しておれ」
 そう言うと八幡与力は与力溜まりを出ていった。そののち、皐月がその日の町廻りの順路を同心溜まりでほかの同心たちと話しあっているとき、八幡が通りかかったので、
「八幡さま、いかがでしたか」
 八幡は浮かぬ顔で、
「褒美のことはおろか、昨夜の一件についてはなんの話も出ずじまいだった」
「え……?」
「わしも黙って聞いておったが、とうとう我慢できず、『昨夜の件、いかが取り計らいましょうか』と申し上げた。すると、お頭は首をかしげて、『昨夜の件だと? なんのことだ』と仰せだ。聞いておられぬのか、とわしが詳しく申し上げようとすると、花井戸さまに一喝された。『八幡、でしゃばるな! 控えい!』……とな。そして、あとでわしの部屋に参れ、とおっしゃられた」
 八幡弓太郎がおそるおそる部屋を訪ねると花井戸与力は、
「襖(ふすま)をしっかり閉めよ」
 と言った。そして、歳(とし)が親子ほども離れた八幡をにらみつけると、
「今、東町奉行所は御用繁多(はんた)だ。鴻池の主も無事だったのであろう。そのような件に割く人数(にんず)はおらぬ。また、お頭も、赴任したばかりでいろいろご心労も多い。つまらぬ件を耳に入れるな」
「あの……駕籠かきがひとり斬られておりますが……」
 しかし、花井戸はじろり、と八幡を見ただけでなにも言わなかったという。
「あれは『黙れ』ということなんだろうな……」
「鶴松という駕籠屋に話をききにいこうと思うておりましたが……」
「とにかく花井戸さまの指図なのだ。守らねばなるまい」
「花井戸さまは、鴻池の件にわざと目をつむっておられるのではありますまいか」
「しっ……! うかつなことを申すでない!」
 八幡弓太郎は口に人差し指を当てた。
「そんなはずはあるまい。なにかわけがあるのだろう」
「どんなわけです」
「そ、それはわからぬが……諸御用調役の花井戸さまににらまれたら出世に響く、どころか、定町廻りを外されるかもしれぬ。ここはおとなしくしておるほうがよいぞ」
「は、はい……」
「花井戸さまはもともと、大塩平八郎(へいはちろう)が東町奉行所与力だったころ、その配下だったお方だ。それゆえ大塩の乱のときは鎮圧の出役から外され、陣頭に立つこともなかったと聞く。それが今や筆頭与力なのだから、やはりたいしたやり手なのだろうな。――皐月、もう鴻池の件は忘れろ」

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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