よみもの・連載

浮世奉行と三悪人

第十六話 三すくみ崩壊の巻2

田中啓文Hirofumi Tanaka

「そういうことだ。お頭は着任してからまだ日も浅いゆえ、下手に動かれると藪蛇(やぶへび)になる。花井戸さまは万事をご自身で明らかにしてから、お頭にご報告なさるつもりなのだ。それであの態度も腑(ふ)に落ちた」
 そこまで言うと八幡はにやりと笑い、
「ならば、わしが花井戸さまにこの紙をお見せして、われらは味方である、とお知らせしたほうがよかろう。――よし、今から花井戸さまに内々に申し上げて参ろう。さすれば、おそらく花井戸さまのわれらへの信任が篤くなるであろう。もしかするとすべてが解決して花井戸さまがお頭にご報告になられる際に、『此度(こたび)のこと、大公儀に対して恥をかかずに済んだのは、ここにいる八幡と皐月の働きによるものでございます』……などと口添えしていただいたら、お頭より加増の沙汰があるかも知れぬ」
「加増? それはようございますな。そうなったらそれがし、屋根の修繕と畳替えをいたします。もう少し良い羽織と袴も欲しいし、そうそう、刀も新調します。あと、熱海(あたみ)に湯治にも参ります」
「あわてるな。まだそうと決まったわけではないぞ。皐月、吉報を待っておれよ」
「はいっ」
 八幡弓太郎は肩を怒らせて部屋を出ていった。しかし、なかなか戻ってこない。そろそろ市中見廻りに出発する刻限なので、じりじりして待っていると、半刻(はんとき)ほどのち、八幡は足を引きずるようにして皐月のところにやってきた。皐月には、八幡が憔悴(しょうすい)しきっているのがひと目でわかった。
「い、いかがなさいました?」
 八幡はその場に崩れるようにうずくまったまま応えない。
「八幡さま……八幡さま?」
 八幡与力は涙目で、押し出すように言った。
「皐月……えらいことになったぞ」
「どうなされたのです」
 八幡はしばらく呆然(ぼうぜん)として天井を見上げていたが、やがて鼻をすすりながらぽつりと言った。
「わしらは……あやうくお払い箱になるところであった」
「なんと……」
「花井戸さまにあの紙をお見せして、われらは味方である、と伝えると、突然怒気を顕(あら)わになさり、紙をわしに向かって放り投げたうえ、われらふたりの職を免ずるようお頭にお伝えする、とおっしゃった」
「ええええっ!」
「わしもうろたえて、『なにゆえでござるか。そればかりはお許しくだされ。先祖代々の職を免ぜられては一家の暮らしが立ちかねまする。どんなことでも仰せのとおりいたしますゆえ……』と言うと、『これには深い仔細(しさい)がある。おまえたちごとき下役(したやく)のしゃしゃり出るところではない。その件について二度と口にしたならばその日のうちに罷免してやる。これは脅しではないぞ』と、わしの目を見つめておっしゃられた。――ああ、怖かった……」

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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