よみもの・連載

浮世奉行と三悪人

第十六話 三すくみ崩壊の巻2

田中啓文Hirofumi Tanaka


「ああ、退屈や」
 上背があって太り肉(じし)の女が欠伸をした。三十過ぎの大年増だが、だぶだぶの浴衣(ゆかた)をわざとだらしなく着なし、帯も緩めに締めている。短い裾から白い太股(ふともも)が丸見えだが、何箇所か蚊に食われた痕がある。顔には歌舞伎の隈取(くまど)りのような化粧を施しており、ただものではないとわかる。天王寺(てんのうじ)にほど近い口縄坂(くちなわざか)に一家を構える女侠客(おんなきょうかく)、口縄の鬼御前(おにごぜん)である。「三すくみ」のひとりで、天王寺界隈(かいわい)ではなかなかの顔役である。
 喧嘩(けんか)も強いが大酒飲みで、飲み比べでは相撲取りにもひけを取ったことはなく、
「くちなわやのうてうわばみや」
 と噂(うわさ)するものもいるほどだが、背中にはとぐろを巻いた大蛇の極彩色の刺青(いれずみ)を背負っているのだ。
「近頃は派手な喧嘩(でいり)もないし、横町奉行は休んどるし、烏瓜(からすうり)先生も診療がお忙しいみたいやし……ああああ、暇やわ。なんぞ、ぶわーっと血の雨が降るようなすがすがしいことはないやろか」
 隣で聞いていた子方(こかた)の豆太(まめた)が、
「姉さん、なにを物騒なこと言うてはりますねん。世の中が落ち着いてるのはええことやおまへんか」
「アホ! あてらみたいな稼業はな、少々騒がしいほうがええのや」
「けど、近頃は露西亜(ロシア)やメリケンやエゲレスの異国船が来たり、江戸の公方(くぼう)さまのお城が燃えたりして、けっこうガチャついてまっせ」
「そやなあ……この国も十年後、十五年後にはどうなっとるかわからんわなあ。徳川(とくがわ)さまの天下がひっくり返ってるとか……」
「そんなことはおまへんやろ。二百五十年も続いとる天下だっせ」
「武士より百姓、町人のほうが偉なってるとか」
「そんなことはおまへんやろ。やっぱりお侍はお侍だっせ」
「日本が異国に港を開いてるとか」
「そんなことはおまへんやろ。阿蘭陀(オランダ)と清国(しんこく)だけとしか付き合うてまへんさかい」
「あのな、豆太……おまえ、なんぼほど頭固いんや」
「そうだすか? けっこう柔らかいほうや思いますけど……」
「徳川さまの天下ゆうたかて、そのまえは太閤(たいこう)さんが天下人やったんやで。あのお方は信長(のぶなが)公のご家来やったのが、明智光秀(あけちみつひで)をやっつけて、あっという間に天下を獲(と)ってしもた。今度また、そんなことが起こらんともかぎらんやろ」
「そらまあそうだすな」
「それに、太閤さんはもともと百姓の出やで。それが天下を我がものにしはったのや。百姓、町人が武士よりうえになる日が来たかておかしないで」
「そらまあそうだすな」
「由井正雪(ゆいしょうせつ)にしても大塩の乱にしてもあとちょっとのところでしくじったけど、つぎは上手いことやるやつが出てくるかもしらん」
「そらまあそうだすな」
「おまえなあ……おのれの考えというものはないんかいな」
「おまへん」
 豆太はきっぱりと言い切り、鬼御前がため息をついて、
「おまえと話してたら頭痛(いと)うなるわ。――頭痛を治すために飲みに行ってくる」
「ほな、わてもお供を!」
「いらん。あてひとりで行く」

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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