よみもの・連載

浮世奉行と三悪人

第十六話 三すくみ崩壊の巻3

田中啓文Hirofumi Tanaka


「八幡(やはた)さま……!」
 足音荒く与力(よりき)部屋に入ってきた皐月親兵衛(さつきしんべえ)を八幡与力はじろりと見上げた。
「なんだ、皐月。町廻(まちまわ)りに行ったのではないのか」
 皐月親兵衛は立ったまま、
「今、中間(ちゅうげん)の稔助(ねんすけ)から聞きました。大尊和尚(だいそんおしょう)の牢問(ろうど)いをはじめるとか……」
「わしもそう聞いている。だが、牢での責めは吟味役の役目。我ら定町(じょうまち)廻りが口を出すべきことではない」
「ではございますが、大尊を召し捕ったのはそれがしでございます」
「それがどうした」
「大尊がいまだに口を割らぬは、下手人ではないためではないでしょうか」
「要久寺(ようきゅうじ)住職名義の火付けを予見する刷り物がなによりの証拠だ」
「それこそが大尊が無実である証拠、とそれがしは考えます。おのれの名を書いて火付けを周知するはずがありませぬ。――それに、あの刷り物は下寺町(したでらまち)から四天王寺(してんのうじ)、松屋町(まつやまち)あたりに配られておりましたが、それがしが独自に調べたるところ、それを配っていたのは町奴(まちやっこ)風の髭(ひげ)を生やし、髷(まげ)の先を刷毛(はけ)のように広げた大男だ、と申すものが幾人か見つかりました。要久寺にはそのようなものはおりませぬ」
「皐月……勝手なふるまいはよせ。町奉行所にいられなくなるぞ。言われたことだけをしておればよいのだ」
「大尊は老齢です。厳しい責めに耐えられるとは思えませぬ。牢問いは止めるべきです」
「なまぬるいことでは白状せぬならばやむをえぬではないか。それに、召し捕りも責めも……皆、お頭の指図なのだぞ」
「わかっております。それゆえ申し上げておるのです。――じつはそれがし、そのような男を見かけたのでございます」
「なに? どこでだ」
「この……東町奉行所のなかでございます。先ほど、お頭の住まいのほうから裏門を通って外に出ていくところをこの目で見ました」
 町奉行所は、白洲(しらす)や奉行、与力、同心たちが執務をする部屋といった公の場所のほかに、町奉行とその家族が住み暮らす私的な役宅としての空間がある。そこには旗本である町奉行が江戸から連れてきた自分の用人や家老、中間、小者、飯炊き……などが大勢住んでいる。そこにはよほど親しくならないと与力や同心は入り込むことはできない。
「たわけたことを……。奴髭を生やして髷の先を刷毛のようにした男などいくらでもいよう」
「ならば、そのものをそれがしが吟味してもよろしゅうございますか」
「その男はな、格三郎(かくさぶろう)と申して、今、お頭のもとにご逗留(とうりゅう)されておいでの良苔和尚の従者のひとりだ。身もとはしっかりしておる。吟味などとんでもないことだ」
「良苔和尚?」
「知らぬのか。臨済(りんざい)宗雷覚寺(らいかくじ)派大本山雷覚寺ご住職にして、宮中より紫衣(しえ)を授かったお方だ。長浜町(ながはまちょう)にある大きな瀬戸物屋美松屋(みまつや)のご親類でもある」

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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