よみもの・連載

浮世奉行と三悪人

第十六話 三すくみ崩壊の巻4

田中啓文Hirofumi Tanaka


「やっと日が決したのう」
 東町奉行石田長門守(ながとのかみ)は薄い盃(さかずき)を口に運びながらそう言った。対面しているのは、雷覚寺住職の良苔和尚である。こちらは大きな湯呑(ゆの)みに酒を注ぎ、がぶがぶと飲んでいる。すでに顔は茹(ゆ)で蛸(だこ)のようだ。
「そのようじゃな」
「この職を離れるについてはいろいろと感慨もあるが……われら一党が長く待ちわびた日がようやく来るのだからな」
「そのようじゃな」
「聞いておるのか、良苔。わしは大塩殿の夢に一歩近づいた……そう申しておるのだ」
「はははは……夢などわしにはどうでもよい。わしにとっては現(うつつ)が……ここにある、ほれ、この酒がすべてじゃ。美味(うま)い酒を飲み、美味い料理を食い、贅沢(ぜいたく)な着物を着、豪奢(ごうしゃ)な館に住み、美妓(びぎ)をはべらせる……それがわしにとっての夢じゃな」
「それはいかん。おまえは大塩殿の言いつけを守る気持ちがあるのか」
「ない」
 良苔は即答した。
「言うたとおりじゃ。わしは贅沢三昧ができればそれでよい。徳川の世が覆り、おぬしらが天下を摑んだなら、今よりももっともっと……それこそ計り知れぬほどの贅沢ができるであろう。ひととして生まれたからは、かつての唐土(もろこし)の紂王(ちゅうおう)やわが朝の太閤殿下のように、だれも及ばぬほどの奢侈(しゃし)にふけりたいではないか」
「禅僧の言葉とは思えぬな」
 石田は呆(あき)れたように言った。
「ふふ……人生は一度きりじゃ。貧困のまま死ぬるも、富を蕩尽(とうじん)して死ぬるも同じ一生ならば、どのような手を使(つこ)うてでもやりたい放題に徹するべきであろう」
 石田は顔をしかめ、
「おまえが船のなかでやりこめられたという大尊という坊主に意趣返しをしようと、寺男に火をつけさせた件だが、わしの配下の同心に勝手に刷り物を作らせて罪をきせただろう。あれも困る。あの尻拭いでこちらは往生して、あやうく秘密が漏れるところだったぞ。ああいう私怨を晴らすのは今は慎んでくれ。大事の障りになる」
「わっはっはっ……わしがどれほどの大物か知らぬ末寺のクソ坊主が身の程知らずのふるまいをしよったゆえ、思い知らせてやったのじゃ」
「とにかく町奉行所のものを私(わたくし)に使うな。いくらわしとおまえが古い知り合いでもな」
「ケチくさいことを申すな。刷り物が得意な同心をちょっと借りただけじゃ」
「万事に気をつけねばならぬ。われらは私怨を超えた大きな企てのために動いているのだ」
「わしに指図するつもりか。あのお方も口ではご立派なことを言うておられるが、その実、かつての恨みを晴らそうというだけではないのか」
「言うてよいことと悪いことがあるぞ、良苔」
「ふん……わしはことが成就した折には大金をくれる、と言われたので手伝(てつど)うておるだけじゃ。おまえがたの志とやらに興味はない」
 奥の襖(ふすま)が開いて、花井戸が入ってきた。入室するまえに声もかけぬ、というのはよほど親しい間柄なのだろう。
「お頭、大尊が逃げました」
「なんだと!」
 石田奉行と良苔が同時に叫んだ。
「どういうことだ。皐月が裏切ったのか」
 奉行の問いに、
「いえ、皐月が大尊を箒尻(ほうきじり)にてまさに打たんとしたところ、曲者(くせもの)が天井より降って参り、皐月を箒尻で殴りつけ、大尊を背負って牢屋敷から逃亡したのです」

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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