よみもの・連載

元禄八犬伝 さもしい浪人が行く

第一話「通し矢と矢数俳諧」

田中啓文Hirofumi Tanaka

     一

「おうおう、なにしやがんでえ、てめえ……そこの図体(ずうたい)のでかいてめえだよ」
 妙に甲高く、ざらついた声が後ろから降り注いだ。
「なんや、わしのことかいな」
 駕籠(かご)屋の留吉(とめきち)は振り返った。そこに立っていたのは、黒羽二重(くろはぶたえ)の単衣(ひとえ)を着流しにして雪駄(せった)履き、漆の剥げた大刀を一本、閂差(かんぬきざ)しに腰にぶち込んだ浪人らしき男だった。月代(さかやき)を五分ほどに伸ばし、ほっそりした顔立ちで顔色は悪く、右頰に縦に刀傷がある。貧乏浪人……と言いたいところだが、着物も帯も洒落(しゃれ)たもので、顔には無精髭(ぶしょうひげ)もなく、青々と剃(そ)り上げている。紐(ひも)をつけた瓢箪(ひょうたん)をひとつ、肩に引っ掛けているところを見ると、よほどの酒好きなのだろう。
「侍(さむれえ)にぶつかっておいてひとことの挨拶もねえたあ、呆(あき)れ返(けえ)った野郎だ。江戸じゃありえねえ話だぜ」
「ふん、江戸ではどうか知らんけどな、上方(かみがた)ではこれが当たり前や。こっちでは侍より町人の方がえらいのや。よう覚えとけ、田舎(いなか)侍」
 留吉は熊のような巨漢であり、熊のような髭も生やしている。
「なんだと? 武士に向かってその口のききようは許せねえなあ」
「今のはおとなしゅう言うた方や。もっとえげつない悪口(あっこう)、なんぼでも言えるで。田舎侍、ムクドリ侍、腰抜け侍、アホ侍、間抜け侍、ヘボ侍、カス侍、最後におまけじゃ、真っ黒けの着物着たカラス侍」
「へっ、口のよく回る野郎だぜ」
 なんだなんだと野次馬が集まってきた。ここは大坂日本橋(にっぽんばし)の北詰、宗右衛門町(そえもんちょう)。大勢が往来する場所なのだ。
「震え上がって土下座するとでも思うたか。おあいにくさま。おまえみたいなヤクザな連中にビビッてたら大坂で駕籠かきはつとまらん。わしはこう見えてただの素町人(すちょうにん)やないで。ヒグマの留(とめ)、ゆうたら、駕籠かき仲間はおろか、大坂、いや、上方中に鳴り響いてる二つ名や。奉納相撲で関脇(せきわけ)張ったこともあるのやで。ぶつかった相手が悪かったな」
「ヒグマだと? へへへへ……たしかに熊に似てらあね。女にゃもてねえ顔立ちだぜ」
「なめとんか? それにな、わしがぶつかったんやない。おまえの方からぶつかってきたんや。それをわては上手(うま)いことよけたのに、ぶつかった、て文句言うてきよった。ははーん……おまえ、当たり屋やな」
「なんだ、その当たり屋てえのは」
「往来でひとにぶつけられたと難癖つけて、なんぼか小遣い銭でもふんだくろう、ていうゆすりたかりの類や。どや、図星やろ」
 着流しの浪人はにやりと笑い、
「そうけえ。そこまでお見通しかえ。ならば話が早(はえ)え。俺の手間も省けたってもんだ。――よこしな」
「な、なにを?」
「てめえが今言った小遣い銭だよ。早く出してくれ。俺もいろいろ忙しいんだ」
「ゆすりたかりとわかってながら、だれが出すかいな」
「そう言わずに、銀(しろがね)十目(匁〈もんめ〉)でいいんだよ」
「そんな大金、職人が持っとるかいな!」
「なら、でーんと負けて、五目でいい」
「ないない」
「じゃあ一目だ。これ以上は負けられねえ」
「ないちゅうとるやろ」
「三十文でも堪忍しといてやらあ」

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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