よみもの・連載

元禄八犬伝 さもしい浪人が行く

第三話「三人淀屋」3

田中啓文Hirofumi Tanaka


「この大たわけが!」
 西町奉行北条氏英(ほうじょううじひで)は、平蜘蛛(ひらぐも)のように平伏していた滝沢鬼右衛門を思いきり蹴飛ばした。鬼右衛門は鞠(まり)のようにごろごろと転がり、壁際でやっと止まった。そして、その場でふたたび平伏した。
「かもめ小僧を牢から奪われた、だと? 町奉行所の面目丸つぶれだ! 聞けば、おまえはかもめ小僧を牢に入れず、穿鑿所にとどめていたそうだな。牢の規則に違反しておるではないか! おまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだ!」
「まことに、まことに、まことに申し訳ございませぬ。なれど、あの盗賊は……じつはかもめ小僧ではなく、その名を騙る偽ものであったことが判明いたしました。それゆえかもめ小僧を奪われた、というわけではなく……」
「よけいに悪い! つまり、西町奉行所は偽のかもめ小僧からの予告状と見抜けず、東町からも多数動員しておいて、大手柄だなんだとさんざん騒いだあげく、まことはかもめ小僧ではなかった……ということだな。明日の瓦版にまたぞろ馬鹿だの阿呆(あほ)だのと書かれるはずだ。どうしてくれる!」
「もう書かれております。先ほど号外が出ておりました。――ですが、たとえ偽ものであっても千両盗み出した盗人を一度は捕えたのですから手柄は手柄……」
「言うな! なにが手柄だ。たまたまそやつが気絶したのを捕えただけではないか。しかも、牢から奪い返されるとは……ああ、もう腹が立つ! 今ごろ、本もののかもめ小僧はさぞかしわれらの醜態を笑っておることだろう」
「かもしれませんな」
「他人事のように申すな! 滝沢、おまえをかもめ小僧探索の役目から外す。わかったな」
「お頭のお言葉ではございますが、それがしほどかもめ小僧のことを熟知しておるものはほかにおりませぬ」
「大口を叩くな。本ものと偽ものの区別がつかなかったではないか」
 鬼右衛門は憮然(ぶぜん)として、
「では、なにをすればよろしいので?」
「先ほど、淀屋辰五郎がかどわかされた、という報(しら)せがあった。おまえはその件を担当せよ」
「淀屋辰五郎が? それはまた、大胆なことを企てる輩(やから)がおりますな」
「うむ。おそらくは身代金目当てだろうが、淀辰の身になにかあったら、日本中の大名家に影響する。手抜かりがあってはならぬぞ」
「ははっ。この件をうまく解決いたしましたなら、かもめ小僧探索のお役目に戻していただけますな?」
「む……そうだな……」
 そのとき、廊下から声がかかった。
「申し上げます」
 氏英に仕える用人であった。
「なんだ」
「ただいま淀屋から使いのものが参りまして……」
「辰五郎の身になにかあったか」
「はあ……それがその……」
「早(はよ)う申せ」
「辰五郎が店に戻ってきたそうでございます」
 氏英と鬼右衛門は顔を見合わせた。

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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