よみもの・連載

元禄八犬伝 さもしい浪人が行く

第三話「三人淀屋」3

田中啓文Hirofumi Tanaka


 話は少し前後する。その日の夕刻、淀屋の店先にひとりの男が立った。
「ただいま」
 男は暖簾(のれん)をくぐると、番頭に声をかけた。男の顔を見た番頭は仰天し、結界から出て土間へ走り下りると、
「旦さん、お帰りやす。まあ、ようご無事で……。さっきお奉行所へ届け出に行くだんどりを皆で話しおうてたところでおます」
 淀屋辰五郎は微笑(ほほえ)みかけ、
「はい、おかげさまでこうして戻ってこれました」
 内儀の菊(きく)と娘の歌(うた)も奥から現れ、辰五郎に取りすがって、
「あんた……怪我はないか? 叩かれたり、蹴られたりしたのやないか?」
「これこのとおり、どこもなんともないわ」
「お父はん……!」
 歌はただただ泣きじゃくっている。辰五郎は娘の肩を優しく抱きながら、
「心配かけたが、もう大丈夫や。けど、ちょっと疲れた。奥に行かせてもらおか」
 辰五郎は廊下を進みかけたが、
「あ……わしの部屋はどこやったかいな」
 菊が、
「あんた、なにを言うてはりますの。ご自分の部屋を忘れるやなんて……」
「どえらい目に遭(お)うて気が鎮まってないのや。堪忍してんか」
「そら、そうだすやろけど。――こっちだっせ」
 菊の先導で辰五郎は居間へと入った。
「どっこらせ、と……」
 辰五郎は床の間を背にして分厚い座布団のうえに座り、
「熱い茶を一杯おくれ」
 菊が不審げな顔で、
「あんたはいつも、わしは猫舌やさかいぬるい茶しか飲まんのや、と言うておいでやけど、今日は熱い方がええのんか?」
「あ……ああ、そやったな。けど、熱い茶は疲れをとるというさかい……」
 辰五郎は女子衆(おなごし)が淹(い)れた茶を、
「おおけに、はばかりさん」
 と言ってひと口飲んだ。番頭が、
「旦さん、いったいなにがあったんだす。町役の話では、ごろん棒に囲まれて駕籠に押し込められたとか……」
「そやねん。急なことで抗(あらが)うこともならず、猿轡(さるぐつわ)をかまされたさかい声も上げられず、なされるがままやった」
「それが、なんで解き放ちになったのでおましょう」
「不思議なことが起きてな……。そのときわしは、助かりたい一心で、『えべっこくさま、お助けください!』と心のなかで念じたのや」
 歌が、
「あれほど嫌(きろ)うてはったえべっこくさまを念じたんだすか?」
「わしにもなんでかわからん。とにかく咄嗟(とっさ)に出てきたのが、観音さんでもお大師さんでもお釈迦(しゃか)さんでもなく、えべっこくさまやった。すると、駕籠が止まったさかい、おそるおそる外に出てみたら、なんと釣り竿(ざお)を持ったえべっさんと木槌(きづち)を持った大黒(だいこく)さんが悪い連中をやっつけとるやないか」
「ほ、ほんまだすか……?」
「わしが嘘言うかいな。思わず目を閉じて手を合わせたのやが、つぎに目ぇ開けたときはえべっさんと大黒さんの姿も、悪い連中の姿もなかった。それで、あわてて帰ってきた、というわけや」

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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