よみもの・連載

元禄八犬伝 さもしい浪人が行く

第三話「三人淀屋」3

田中啓文Hirofumi Tanaka

「ば、馬鹿な真似はよせ。来るな、来るな来るな……うわあっ」
 五六蔵は思わず弾を発した。重岩は胸に弾を受けてもその突撃をとめず、五六蔵を床の間まで追い詰めると、太い床柱を両手で摑み、めきめきめき……とへし曲げた。
「た、助けてくれっ」
 五六蔵は叫んだが、重岩はへし折った柱を五六蔵の頭に叩きつけ、折り重なるようにしてその場に倒れた。それを見た左母二郎は一瞬苦い顔をしたが、すぐに洞穴上人に向かって、
「もうじきここに町奉行所の役人たちが押しかけてくる。てめえらはもうおしめえだ」
「な、なにっ」
「ここに来る途中で、淀屋辰五郎は偽ものでえべっこく寺が淀屋を乗っ取ろうとしてる、てえ一部始終を書いた投げ文を放り込んでおいたのさ。せいぜい末期の酒を味わいやがれ。――あばよ」
 左母二郎とその仲間たちは身を翻して淀屋の座敷から去った。僧たちが洞穴上人に、
「頭、どないします?」
「逃げた方がよろしいのとちがいますか」
 そうたずねながら洞穴上人の顔を見て、皆は仰天した。洞穴上人は白目を剥いたまま佇立(ちょりつ)しており、その身体の毛穴からは黒い蒸気のようなものが立ち上っている。そして、それが頭のうえで渦を巻き、黒雲のように天井近くまでを覆っている。そのなかに、ひとりの白髪の老人の姿があった。
「淀屋の財産を奪い……わが望み叶(かな)えるがための軍資金にしようと思うたに……八犬士とやらに邪魔されて……果たすこと叶わぬとは……口惜(くちお)し……口惜し……あああ、口惜しや……」
 そのような声が聞こえたかに思えた。
「頭……頭……沓底のお頭、しっかりしとくなはれ!」
 僧たちに背中を叩かれて、はっと我に返ったらしい洞穴上人は、
「わしは……いったいなにを……」
「立ったまま寝てたらあきまへんで。間もなく捕り方が押し寄せてきまっせ」
「なに?」
「逃げる暇はおまへん。捕まったら皆、縛り首か遠島だす。なんとかしとくなはれ」
 沓底の伝三は座敷の障子を開け放った。御用提灯がひたひたと近づいてくるのが、遠目には無数の蛍(ほたる)のように見えた。
「やつらは土佐堀川(とさぼりがわ)の南側の岸づたいに動いてるようだな」
「どないしまんのや」
「よし、わしらは淀屋橋を渡って北へ……中之島(なかのしま)に逃げよう。橋を渡ってすぐのところに水戸(みと)家の蔵屋敷がある。あそこなら経緯(いきさつ)を話せば匿(かくも)うてくれるかもしれぬ」
「そうしましょ、そうしましょ。一刻も早う……」
 坊主たちは我先にと座敷を出ていった。

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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