よみもの・連載

元禄八犬伝 さもしい浪人が行く

第三話「三人淀屋」3

田中啓文Hirofumi Tanaka

「ううう……助けてくれ。わしは泳げんのだ!」
「わてもや!」
「死ぬうっ」
 暗い川のなかでもがく坊主たちを左母二郎は冷ややかに見下ろし、
「おーい、てめえら、周りを見てみろよ。瓢箪がいっぱい浮かんでるだろ。助かりたかったらそいつにしがみつくんだな」
 僧たちは必死で瓢箪を探してそれにつかまった。左母二郎は淀屋辰五郎に、
「これでよかったのか? おめえさんの先祖が作った橋だろ?」
「大事おまへん。また架けたらよろし。金だけはおますさかいな」
 辰五郎はこともなげにそう言った。左母二郎が辰五郎の顔のままの並四郎に、
「金と言やあ千両箱はどうした?」
「たしかさっきその木の横に……。ああ、あったあった」
 千両箱の蓋を開けた並四郎は、
「ふわあっ!」
「大声を出すなよ。どうしたんだ」
「な、ない! たしか三百両ほど入ってたのに……一両しかない」
 丶大法師が、
「そう言えば、船虫はどこだ」
 並四郎は歯嚙(はが)みをして、
「くそっ、あのガキ……またやりよった」
 そう言って一両小判をつまみ出した。左母二郎はその小判をひょいと横合いから取り上げると、
「もらっとくぜ」
「えーっ!」
 並四郎は悲しそうな目でその一両を見つめると、川のなかに視線を移した。瓢箪につかまって浮いている僧たちに、滝沢鬼右衛門たちの乗った船が御用提灯を掲げながら近づいていくところだった。

「いらっしゃ……またあんたかいな。もう来んとってくれ、て言いましたやろ」
「ぶらり屋」の主は目を吊り上げた。
「そう言うなよ。さっきはありがとよ。あの瓢箪、役に立ったぜ」
「なんの役に立ったのか知らんけど、そうたびたびタダで瓢箪持ってかれたら商売あがったりや」
「タダじゃねえ。あとで払うって言っただろ」
「嘘言いなはれ。払う気なんかおまへんやろ」
「たしかにそういうつもりだったんだが、気が変わったんだ。――ほい」
 左母二郎はなにかを瓢箪屋の店先に投げた。
「こ、こ、これ、一両やおまへんか」
「いらねえんなら返せ」
「だれが返しますかいな。おおきに……おおきに。また来とくなはれ」
 左母二郎はなにも応えず、店をあとにした。

 日本一の豪商淀屋は、この数年後に公儀によって闕所(けっしょ)処分となった。表向きは、町人にあるまじき驕(おご)りゆえの贅沢三昧(ぜいたくざんまい)を咎(とが)められたことになっているが、じつは大名貸しの借金が膨れ上がって返済に苦しむ大名家を救うためだったと言われている。しかし、本当の理由は別にあった。
 このあとも水戸家は淀屋の財産を乗っ取るための画策を繰り返した。もし、二十億両という莫大(ばくだい)な財産が水戸家の手に渡ったら、将軍家にも対抗する力を持つことになる。やむなく綱吉は淀屋を取り潰したのだ。しかし、事前に通告しておいたため、淀屋は先立って暖簾(のれん)分けをし、財産の一部をそちらに移したので実質的には存続することができた。

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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