よみもの・連載

元禄八犬伝 さもしい浪人が行く

第七話「空から落ちてきた相撲取り」3

田中啓文Hirofumi Tanaka

     三

 大きな身体(からだ)の男が大坂の裏通りをよたよたと歩いている。あちこちに怪我(けが)をしているようで、身体に巻きつけた布に血がにじんでいる。顔色も悪い。
(わしは……いったいどこのだれじゃ。あの連中が言うていたように相撲取りなのか。しかし、この町にまるでなじみがない。ここに住んでいたわけではないのか。だとしたら、わしはどこから……うう……頭〈つむり〉が痛む……)
 男は脚を引きずるようにして通りから通りをさまよった。もともと行くあてもないのだ。自分がだれだかわからぬまま、あの家でじっと寝ているのが耐えられなくなり、なにも考えずに出てきてしまった。
(もう一度あそこに戻ろうか……。いや、それではおのれの素性がわからぬままじゃ。どうすればよいのかのう……。考えてみれば、こうして歩いているだけでなにかがわかろうはずもないのう……。そ、そうじゃ、通りを歩いておる連中にわしがだれかたずねてみればよい。もしかしたら、知っておるものがおるかもしれぬ)
 大男は、
「皆の衆、皆の衆、わしはどこのだれかのう。知っていたら教えておくれ。お願いじゃあっ」
 大声でそう叫びながら歩きだした。
「わしの……わしのおふせはどこじゃ」
「おい、そこの男」
 そちらを向くと、町奉行所の役人らしい侍が立っていた。ごわごわした揉(も)み上げを長く伸ばし、腕にも手の甲にも剛毛が生えている。大坂西町奉行所盗賊吟味役与力(よりき)、滝沢鬼右衛門(たきざわおにえもん)である。かもめ小僧の召し捕りに異常な執念を燃やしている人物だ。
「わしですかい」
「そうだ。怪しいやつ。見たところ相撲取りのようだが、どこの部屋のものだ。名はなんと申す」
 大男は頭を抱え、
「うおおおーっ!」
 と吠(ほ)えた。滝沢鬼右衛門は仰天して二、三歩後ずさったが、そこで踏みとどまった。大男は、
「それがわからぬゆえ困(こう)じはてておるのじゃ。教えてくれ、わしはどこのだれじゃ」

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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