よみもの・連載

元禄八犬伝 さもしい浪人が行く

第七話「空から落ちてきた相撲取り」3

田中啓文Hirofumi Tanaka

「なにか申したか」
「いや、なんでもない」
 小文吾は、左母二郎たちの隠れ家に落ちてきた力士がその鮫ケ海だと確信を持ったが、もしそうだとしても、あの大怪我では相撲は当分取れまい。証拠もないので「生きている」とは言わなかった。
「で、わっしになにをしてほしいのじゃ」
「相撲に出てほしい。それも、犬田小文吾としてではなく、鮫ケ海として出場してほしいのだ」
「鮫ケ海として? なにゆえそんなことをせねばならぬ。わっしが犬田小文吾としてその鎧竜に勝てばよいのではないか?」
「大坂のものたちが待ち遠しく思っているのは、なんと申しても鮫ケ海と鎧竜の一戦だ。それがなくなった、となると皆落胆するだろう。賭け金の返金が相次ぐかもしれず、興行元も困る。此度(こたび)の相撲興行は、大坂の庶民のささやかな娯楽になれば、と船場(せんば)の生糸問屋縄田屋と心斎橋(しんさいばし)の書肆(しょし)万書堂が企てたものだ。表向きは大店の縄田屋が興行主、ということになっておるが、じつは細かいことは万書堂の主(あるじ)が決めており、縄田屋はいわば名前を貸した恰好(かっこう)だ。万書堂は、大坂町奉行所に幾度となく掛け合い、とうとう許しを得た。一文も儲けるつもりはなく、ただただ堀江(ほりえ)を、大坂を盛り上げようという気持ちでしたこと。鎧竜と鮫ケ海の勝負を楽しみにしている浪花のものたちの夢を壊しとうない。また、興行元に損をさせるのもかわいそうではないか」
「しかし、替え玉がバレるのではないかのう」
「心配いらぬ。おまえは江戸から来たところだ、と言うていたな。鮫ケ海は遠く萩からやってきたのだ。大坂で両名の顔を見知っているものはいないと思われる。萩の力士たちさえ黙っておれば、バレる気遣いはない」
「むむ……それはそうかもしれぬが……」
「頼む。鮫ケ海として相撲に出てもらいたい。犬田殿ならば、きっと鎧竜に勝てると思う。これは世直しなのだ」
「世直しだと?」
「さよう。わしは町奉行所が裁けぬ悪の芽を摘み、正義の刃でご政道の歪(ゆが)みを正し、下々のものが明るく暮らせる世の中の到来を望むもの。そのためにも鎧竜などという邪悪の輩(やから)を除かねばならぬ。ぜひとも犬田殿のお力を貸してもらいたいのだ」
 世直し大明神はその場に伏した。

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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