よみもの・連載

元禄八犬伝 さもしい浪人が行く

第七話「空から落ちてきた相撲取り」3

田中啓文Hirofumi Tanaka

「悪い噂(うわさ)は……?」
「聞いたことがない」
 藤沢部屋の場所を聞いたあと、小文吾は礼を述べて酒魂神社を辞し、藤沢部屋に脚を向けた。皆は稽古の真っ最中だった。小文吾は稽古の様子を眺め、一段落するまで待ってから声をかけた。
「稽古中にすまぬが、ここに黒羽二重の浪人が来なかったかね」
「ああ、ついさっき来ましたわい。鮫ケ海関がいないか、って言うてきたが、もう帰ってしまった」
 力士のひとりが汗を拭きながら言った。
「また入れ違いか」
「わしらは皆、鮫関が竜巻で死んだものと思うて嘆いていたが、その浪人が言うには、鮫関は生きておいでだとか。今、大喜びしておるところじゃ。――ところであんたは?」
「わっしか。わっしがその鮫ケ海じゃ」
 ぽかんと口をあける一同を尻目に小文吾は鉄砲柱のところに行き、
「さて、わっしも稽古しようかのう」
 そして、猛烈な勢いで鉄砲をはじめた。柱から煙が出そうなほどのその凄まじさに、萩から来た力士たちは呆然(ぼうぜん)として見つめていた。

「犬田という方が身代わりを引き受けてくださった? そら、よろしゅおましたなあ」
 万書屋卯左衛門は安堵(あんど)した様子で言った。
「うむ、うまくだませたわい。ひとの申すことになんの疑いも抱かぬ阿呆(あほ)で助かった。これでひと安心、と言いたいところだが……」
 世直し大明神の表情は晴れなかった。
「まだ、なんぞおますのか」
「犬田小文吾はさっき、勝てるかどうかは、やってみねばわからぬ、とか、全力は尽くすが、勝負は時の運、とか申しておった。言われてみれば確かにそのとおりだ。おそらく負ける気遣いはない……とは思うが、犬田、いや、鮫ケ海に間違いなく勝たせるためのよき思案はないか?」
「いわばダメ押しだすな。ふーむ……」

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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