よみもの・連載

元禄八犬伝 さもしい浪人が行く

第七話「空から落ちてきた相撲取り」3

田中啓文Hirofumi Tanaka

「はい。我々も急いでおりまするが、ほとんどなんの手がかりもなく……。先ほど八犬士の一人(いちにん)犬田小文吾から大坂での相撲興行のいざこざについて、『おふせ』と『たま』なる言葉を耳にし、今、調べにかかっておると京の船宿に手紙が参りました。此度こそはまことの手がかりであることを祈っておりまするが、もしまたしてもあらぬ噂であったときは、隆光(りゅうこう)さまのご祈禱(きとう)にすがるほかござりませぬ」
「うむ、大船に乗ったつもりでおれ……と言いたいところだが、わしにも自信はないのだ」
「いつもの大僧正らしゅうない弱気な物言いでございまするな。それは困ります」
「じつはこの三十石船が大坂に近づくにつれて、行く手に暗雲が重く垂れ込めているように見えるのだ。わしの法力であの黒い大岩のような雲を払えるかどうか……」
「なんとかよろしくお願いいたしまする」
 丶大法師は隆光に頭を下げた。

 万書堂卯左衛門は、用心棒として雇っている浪人の駿河三郎太(するがさぶろうた)とともに道修町の薬種問屋からの帰途についていた。なぜ本屋に用心棒が必要かというと、実名を出してあることないことを書いた際物の本を多く出版しているため、名前を使われた相手が怒って怒鳴り込んでくるからなのだ。駿河は斬り合いで傷を負い、右目に眼帯をしている。
「たいそう渋っておったが、最後には売りよったのう」
「ははは……うちの薬はお上の許しがないかぎりたとえ相手がだれであろうとお分けでけまへん、とかえらそうに抜かしとったが、あの書き付けを見せたらいっぺんに態度が変わりよった。ええ気味だすわ」
 卯左衛門は鮫ケ海の勝利を確信していた。
「団子か羊羹(ようかん)に仕込んで、贔屓(ひいき)筋からの差し入れやさかい、ぜひ鎧竜関に……て持っていったら食いよるにちがいない。いろいろあったけど、これであとは万事上手く運びますやろ……」
「そうあってもらいたいな。拙者も鮫ケ海の札をたんと買うておるのだ」
 長堀を目指して南に向かって歩いていると、途中で「甘々屋(あまあまや)」という菓子屋があった。
「丁稚(でっち)に買いにいかせるより、ここでわてが買うてかえったほうが早いな。ちょっと買うてくるさかい、ここで待っといてくれ」
 駿河にそう言って、足を菓子屋に向けた途端であった。なにかが脇腹のところにずしんとぶつかった。菓子屋に気を取られていた卯左衛門は思わずよろけ、その拍子にふところから薬包が地面に散らばった。拾い集めようとしたとき、小さな手が伸びてきてそのひとつを引っ摑んだ。卯左衛門がそちらを見ると、十二、三歳ぐらいの娘が卯左衛門をにらみつけたかと思うと、身を翻して駆け出した。

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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