よみもの・連載

元禄八犬伝 さもしい浪人が行く

第七話「空から落ちてきた相撲取り」3

田中啓文Hirofumi Tanaka

「ま、待てっ……!」
 卯左衛門はそう叫んだが、待つはずもなく、娘の姿はひと混みのなかに埋没した。卯左衛門は残りの薬包をあわてて拾い、
「まあ、ひとつだけでよかった……」
 そうつぶやいたが、
「ない……! ないないないっ」
 財布がないのだ。
「しもた。あのなかには書き付けが……」
 蒼白(そうはく)になった卯左衛門は駿河に、
「先生、なんとかしとくなはれ」
「わかった……!」
 駿河は菓子屋の塀に立てかけてあった梯子(はしご)に上ると、娘が走り去った方角を見渡した。
「いた……!」
 ひと混みを搔(か)き分けて逃げていく娘の姿を見つけた。駿河は棒状の手裏剣を抜き、娘に投げつけた。狙いはたがわず、手裏剣は娘の左腕に刺さった。娘は転倒したが必死に起き上がろうともがいている。そのあいだに駿河三郎太は走って娘との距離を詰め、刀を抜いた。
「ひっ……!」
 娘の顔が恐怖で歪(ゆが)んだ。
「もうせえへん。出来心やねん。財布返すさかい許して……」
「そうはいかん。二度とひとのものに手を出せぬよう、右手を斬り落としてやろう」
 娘はべそをかいている。その手首をだれかが横合いから摑んで引っ張った。顔を上げると、船虫(ふなむし)だ。
「あっ、おばちゃん」
「早くこっちに来るんだよ!」
 駿河は刀を振り上げ、
「女! その娘は掏摸(ちぼ)だ。いらぬことをせぬほうがよいぞ」
「知ってるよ、そんなこと」
「ならば、貴様もろとも斬り捨て……うわあっ!」
 船虫が道に落ちていた石を駿河の顔面に投げつけたのだ。駿河の額が割れて血が噴き出した。その隙に船虫は娘の手を引いて走り出した。
「死ぬ気で駆けな!」
「あいっ」

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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