よみもの・連載

元禄八犬伝 さもしい浪人が行く

第七話「空から落ちてきた相撲取り」3

田中啓文Hirofumi Tanaka

 ふたりは走りに走り、とうとう駿河を撒くことができた。
「ああ、よかった。たまたま通りかかったんだけど……往来で本気でひとを斬るようなやつ、あたしゃ大っ嫌いなんだ」
「おばちゃん、おおきに」
「その『おばちゃん』てのやめてくれないかねえ。――ま、あんたから見たらおばちゃんかもしれないけど、あたしゃ案外若いんだよ。おっと……そんな軽口叩いてるときじゃなかった。あんた、怪我してるんだろ。ここで手裏剣を引っこ抜くといっぱい血が出るから、あたしの知ってるお医者のところに行って抜いてもらおうか」
 娘はこっくりとうなずいた。娘の手を握って歩き出した船虫は、娘が小刻みに震えているのがわかった。
「怖かったろうね」
 娘はうなずいた。
「あんた、ひとりかえ?」
 娘はうなずいた。
「天涯孤独ってやつか。あたしもそうなんだよ。おたがいつらいよねえ」
 娘はうなずいた。
「どこに住んでるんだい? もしかしたら宿無しかね?」
 娘はうなずき、
「お寺とか神社の縁の下で寝泊まりしてる。ときどき掏摸の親方のところに泊めてもらうけど……」
 船虫はため息をつき、
「あたしは船虫ってんだ。妙な名前だろ? あんたは?」
 船虫は、娘が名を名乗らないかもしれないと思ったが、
「うち、実乃(みの)。けど、今日からは実乃虫にしよかな」
「どうしてさ」
「うち、おばちゃんの弟子になる」
「ダメだよ。あんたはあたしみたいになっちゃ。まだ、やり直せる。さっきみたいに怖い思い、これからもしたいかい?」
 娘はかぶりを振った。
「だったら、掏摸はやめて、悪事から脚を洗うんだね。まっとうな仕事なら、おばちゃんが……じゃなかったお姐(ねえ)さんが世話してあげるからさ」
「どうしておばちゃんは悪いことから脚を洗わへんの?」

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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