よみもの・連載

元禄八犬伝 さもしい浪人が行く

第七話「空から落ちてきた相撲取り」3

田中啓文Hirofumi Tanaka

「ああ、そう言えば犬田小文吾さんと左母二郎もそんなこと言ってたねえ。文亀堂という本屋の息子さんが大坂の玄人(くろうと)相撲に交じって出場するとか……」
 それを聞くと馬加大記は湯呑(ゆの)みを置いて腕組みをした。
「どうしたんだい?」
「いや……また本屋か、と思うてな」
「たまたまだろ。この書き付けに書いてあることが本当なら、薬を買ったのは文亀堂じゃなくて、万書堂の卯左衛門ってひとだよ」
「本屋というのは大坂では心斎橋に集まっておるが、互いにしのぎを削り合い、ときには偽版というて他店が出した本の中身を丸ごと剽窃(ひょうせつ)したり、版木を盗んだりするなど、競い合いが激しい商いだと聞く」
「ふーん……」
「気になっておることがひとつある。お実乃、この薬と書き付けの持ち主は、菓子屋に入ろうとしていた、と申したな」
 実乃はうなずき、
「それがどないかしたん?」
「いや……菓子か……」
 それきり口をつぐむと、ふたたび酒を飲み出した。船虫が、
「気になるじゃないか。お菓子がどうしたのさ」
「ただの憶測にすぎぬが、しびれ薬というものは、他人に飲ませるときには菓子に仕込むのが定法なのだ。味が苦いゆえ、それをごまかすためにな」
「じゃあ、万書堂の主ってのは、だれかにしびれ薬を飲ませる気だってのかい」
「杞憂(きゆう)であればよいがのう……」
 船虫は立ち上がると、
「こうしちゃいられない。あたしゃ、左母二郎たちにこのこと教えてくるよ」
 馬加大記は止めなかった。
「気を付けていけよ。用心棒はおまえの顔も見ているのだからな」
「わかったよ。――お実乃ちゃん、この書き付けは念のためあたしが預かっとくよ。あたしゃこれで帰るけど、なにかあったらこのおっさんに言いなさい。名前は馬鹿っぽいけど、こう見えて、頼りになるところも探せば少しはあるから」
「わかりました」
 実乃は神妙に頭を下げた。

 左母二郎が藤沢部屋から戻ってくると、並四郎(なみしろう)が隠れ家の屋根に上がって板を打ちつけていた。
「見て見て、左母(さも)やん! もうあらかた塞いだで。すごいやろ!」

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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