第七話「空から落ちてきた相撲取り」3
田中啓文Hirofumi Tanaka
町人が幅をきかせている大坂には「侍、なにするものぞ」という気風があり、「お上」というだけで逆らいたくなるものも多かった。小西来山(こにしらいざん)という俳諧師は、
大坂も大坂まん中に住みて
お奉行の名さへおぼえずとし暮れぬ
という発句を残している。年の瀬のあわただしい時期、新任の町奉行の名など覚えている暇もない、という大坂庶民のお上への無関心ぶりを表した句である。
つまり、お上と付き合いのある大商人や家主、町役などを除けば、大坂の町人たちにとって町奉行の名前などどうでもよかったのである。ましてや三人体制になると、ひとりは江戸にいるわけだから、まだ赴任していない町奉行のことなど知らなくても一向困ることはないのだ。
「どうやら三人目の町奉行が黒幕らしいな。俺ぁだんだん腹が立ってきたぜ」
「わてもや。お上のご威光ゆうたかてなにをしてもええんとちがうで」
「ほんとに町奉行だったとはねえ……。どうしてそんなにお金を欲しがるんだろ。まあ、あたしも欲しいけどさ」
「俺も欲しい」
「わても欲しい」
三人は嘆息した。船虫が、
「そう言えば、犬田小文吾さんはどこにいるんだね」
「ああ、あいつもいなくなっちまったのさ。鮫ケ海がうわ言みてえに『ふせ』とか『たま』とか抜かしやがったから、あとで酒魂神社に行くから待っててくれ、と言ってたのに、神社にも藤沢部屋にも来やがらねえ。家にいるのかと思っていま犬小屋に寄ってみたがだれもいねえ。どこかに消えちまった。もしかしたら別の手がかりを見つけて、そっちに回ったのかもしれねえが……」
「ふーん……みんな勝手だねえ。で、これからどうするのさ」
「とにかくこの一件を金にしなくちゃならねえ。万書堂卯左衛門って野郎は叩けばいくらでも埃(ほこり)が出そうだな」
並四郎がうれしそうに、
「わての出番やな」
そう言うと化粧道具を取り出し、早速顔を整えはじめた。
- プロフィール
-
田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。