よみもの・連載

元禄八犬伝 さもしい浪人が行く

第七話「空から落ちてきた相撲取り」5

田中啓文Hirofumi Tanaka

 左母二郎はありがたくその一杯をもらいうけながら、
「ところで、萩(はぎ)の相撲取りの大関、鮫ケ海のこと、なにか聞いてねえか」
「さあ……なにかあったのか」
「いや……そういうわけじゃねえが……」
「昨日、その鮫ケ海がひとりで挨拶に来よったぞ」
「なにい!」
 左母二郎は大声を出したが、宮司はへらへらと笑って、
「藤沢(ふじさわ)部屋の場所を教えてやったゆえ、そこに行ったはずじゃ」
「どんな男だった? 左頰に傷があったか?」
「さあてなあ……わずかな時間しかおらなんだゆえ、そこまでは覚えておらぬ」
「ちっ、役に立たねえ宮司だぜ」
「なにか言ったか?」
「いや、なにも……」
「さっき、縄田屋(なわたや)から明日の番付を届けてきた。それにもほれ……」
 宮司は番付表を左母二郎に見せた。
「東の大関、鮫ケ海となっとるじゃろう」
 左母二郎はしげしげとその番付を眺めた。
(どういうこった。鮫ケ海は相撲は取れねえはずだが……)
 宮司はそんな左母二郎の様子にも気づかず、機嫌よく盃(さかずき)を重ねている。
「邪魔したな」
「もう行くのか」
「気になることがあってな。明日は見物に来らあ」
「酒を支度して待っておるぞ」
 宮司は赤い顔でそう言った。左母二郎はまっすぐ藤沢部屋を目指した。自然に早足になっていた。だが、なかはもぬけの殻だった。荷物もきれいさっぱりなくなっていた。
「どういうこった、こいつぁ……」
 さすがの左母二郎にもわけがわからなかった。

 夕方、鎧竜が稽古を終えて家に戻ると、ちょうど左母二郎が来ていて、金兵衛(きんべえ)となにごとか話している最中だった。
「なんぞご用かのう」
 鎧竜がきくと左母二郎は、
「明日が本番だから、様子を見にきたのさ。――俺ぁこれから金兵衛と内緒の話があるから、ちっと親父さんを借りるぜ」
「内緒ごとなら奥でやればよいのに……」

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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