よみもの・連載

元禄八犬伝 さもしい浪人が行く

第七話「空から落ちてきた相撲取り」5

田中啓文Hirofumi Tanaka

「いや、ヤクザや用心棒との喧嘩(けんか)で怪我でもしたらつまらん。そういうときは逃げるが勝ちや。なにが一番大事かを考えなはれ。一時の血気にはやったらあかんぞ」
「そうじゃな。あいつらを相手するのは鮫ケ海関との相撲が終わってからにしようかい」
「それでええ」
 金兵衛はうなずいた。
「明日は早起きやで。飯を食うたら寝てしまえ」
「そうじゃな。まだまだ食いたらぬが腹八分目じゃ」
 そう言って鎧竜は箸を置いたが、そのときすでに一升も平らげていたのである。

 大晦日……つまり、相撲の当日になった。からりと晴れた相撲日和(びより)、早朝から一番太鼓が「天下泰平、五穀豊穣、国家安穏、ドドンガドガドガ、ドドンガドガドガ」と打ち出され、いやがうえにも雰囲気を盛り上げている。三度の飯より相撲が好き、という連中は、取る側も取られる側も掛け取りをひととき休んで酒魂神社に詰めかけている。また、観戦はしていなくても、賭け札を買ったものたちも、勝敗の行方に興味津々である。いつもの大晦日とまるで異なり、浪花(なにわ)っ子全員が相撲熱に冒されているかのような熱気が大坂中に渦巻いていた。そんななか、左母二郎はふらりとひとりで神社を訪れた。やはり、鳥居のところに鮫ケ海休場を知らせる張り紙などはなかった。
(どうなってやがるんでえ……)
 宮司はにこにこ顔で左母二郎を迎えた。
「うれしそうだな」
「これだけ客が入ると、なんとのううれしゅうなってくるもんじゃ。うちの祭礼の日もこれぐらいひとが集まらんものかのう」
「ところで、鮫ケ海のことでなにか聞いてねえか?」
「きのうもそんなこと言うておったのう。鮫ケ海になにかあるのか」
「なんにもねえよ」
「あんたは鮫ケ海贔屓(びいき)かもしれんが、今日の相撲は鎧竜の優勝じゃ」
「そうなりゃあいいけどな。――じゃあな」
「おいおい、相撲は観(み)ていかんのか」
「観たいけど、満員御礼なんだろ」
「わしの顔で、青田(無料入場)で入れてやるぞ」
「そいつぁありがてえ」
 相撲場といっても、中央に土俵があり、そのまわりを囲むように客席がしつらえられているだけで、屋根はない。雨が降ったら中止なのだ。そして、その外側全体を葭簀(よしず)で囲っていて、そこに力士の名前を書いた色とりどりの幟(のぼり)が立っている。場内は立錐(りっすい)の余地もなく、ひといきれでむんむんしており、真冬だというのに火鉢などいらぬ暑さであった。

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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