よみもの・連載

元禄八犬伝 さもしい浪人が行く

第七話「空から落ちてきた相撲取り」5

田中啓文Hirofumi Tanaka

 小文吾は卯左衛門に向かって一歩進み、卯左衛門は鬼右衛門の後ろに隠れた。鬼右衛門は、
「大坂町奉行所の与力として申し渡す。おまえが鮫ケ海でないとすると、鮫ケ海に賭けた賭け札はすべて無効ということになる。最後の一番は取り直し……と言いたいが、鮫ケ海は大怪我を負うておる。よって、勝負はなかったものとする」
 観客たちの怒りは卯左衛門に向けられた。
「おい、あのガキ、いてまえ!」
「ぼこぼこにしたれ!」
「みなで引きちぎれ!」
 暴徒と化そうとした客たちのまえに鬼右衛門が立ちはだかり、
「待った。そのようなことをしたらおまえたちが罪人となる。わしは万書堂を召し捕って吟味し、町奉行に厳正にお裁きを下していただくつもりだ。それで納得してもらいたい」
「けど、賭け札の金はどうなるのや」
「もちろん賭けた額に応じて返金いたすゆえ、賭け札は大事に持っておけ」
 そこへ世話役のひとりが青い顔でやってきて、
「みんなから集めた賭け金も木戸銭も優勝の賞金もなくなってます!」
「なんだと?」
 卯左衛門が、
「大明神や! あいつ、持ち逃げしよったんや!」
 鬼右衛門が卯左衛門をにらみつけ、
「ナントカ大明神なるものがいる、と申しておるのは、おまえと犬田のふたりだけだ。おまえがはじめから独り占めするつもりだったのではないか?」
「ち、ちがう。世直し大明神は、町奉行の中山出雲守さまで……」
「黙れ! 中山殿は江戸におられるはず。でたらめを申すな!」
 ふたたび観客たちが怒りの声をあげたので鬼右衛門は、
「鎮まれ! 安堵せよ。すべては万書堂が責めを負うべきこと。万書堂の財産をすべて処分することで贖(あがな)われることになろう」
 縄田屋が進み出て、
「私も、名ばかりとはいえ主催のひとり。足らぬ分は私が償(まど)いましょう」
 これで皆は納得した。彼らの大半は鎧竜に賭けていたのだし、相手が偽ものだったとはいえ鎧竜は負けたのだから、賭け金が戻ってくるほうが得なのである。鬼右衛門は、
「せっかくまことの鮫ケ海が来たのだ。相撲は取れぬとも、土俵入りだけでもやってもらおうと思うがどうかな」
 大きな歓声が上がった。左母二郎は、土俵入りは観ることなく相撲場をあとにした。しばらくすると並四郎と小文吾が追いついた。左母二郎は小文吾に、
「おめえが鮫ケ海の代役をしてるたぁ気づかなかったぜ」

プロフィール

田中啓文(たなか・ひろふみ) 1962年大阪府生まれ。神戸大学卒業。
93年「凶の剣士」で第2回ファンタジーロマン大賞佳作入選、ジャズミステリ短編「落下する縁」で「鮎川哲也の本格推理」に入選しデビュー。
2002年『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で第33回星雲賞日本短編部門、09年「渋い夢」で第62回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズ、『鍋奉行犯科帳』シリーズ等、著書多数。

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